『姓氏家系大事典』太田亮氏著)によると『佐野氏の拠点であった安蘇郡下(現在の佐野市)に関しては、伝説の「佐野常世」から7世後裔の伊豆守常行の息子・若狭守宗行が同郡小平郷に因み 小平姓を称え、初代の古河公方たる足利成氏に仕え その係累は慶長年間に途絶えた』。要は 応仁の乱等々の戦国時代までは皆川城の武士として活躍したが 徳川幕府成立が固まった17世紀前半に途絶えたのである。 小平姓のルーツ 現在の佐野市葛生町鉢木字小平郷で 始祖は「いざ鎌倉」で有名な野武士「佐野常世」。小平姓を名乗ったのは若狭守小平宗行である。 小平姓のルーツ.pdf PDFファイル 525.1 KB ダウンロード
昭和20年3月10日の東京大空襲では三組町にあった自宅が焼夷爆弾で焼夷爆弾で全焼し、浪平家族は逃げ廻った様子がリアルに書かれている。全焼したと思った高等小学校からの全巻68巻は倉庫保管したため無事と判明。但し65巻と66巻及び本人が書いた年譜は自宅に置いてあったため焼失、又高等学校時代の数冊は行方不明となる。加えて母親からの口述筆記の家系図も焼失。 尚 三組町家の敷地は その後「小平記念東京日立病院」としてが開院されたが 数年前売却された。 ************************** 敵の空襲は日増しに苛烈の度を加え、東京にも各所に火災が発生するに至り、三組町の宅は高台にてこの火災を大低望見することを得たり。二月二十五日(昭和20年)の大降雪中に百数十機のB29低空にて空襲しき来り、市内の広範囲に火災を生せしめたり。 この前にも一回空襲ありて末広町など焼け、三組町宅は漸く難を免れたる状態になりしが、かねて予期したる通り三月十日の未明に大空襲により全焼するに至りたり。 この時には警戒警報発令せられ数分の後には空襲警報となり、間もなく敵機は低空にて頭上に飛来すると云う慌ただしき情勢にて充分なる準備も出来ず、僅かに平常の洋服に着替えたるのみにて帽子も冠らず鉄兜も着けず、防空頭巾を冠りボロ靴をはきて防空壕に逃げ込みたるなり。 幾編隊のB29が次から次から飛来して焼夷弾を投下し、近辺各所に火の手揚がりたれば之は容易ならずと思い、危険を冒し壕を出て視察したるに、北方天神町及び新花町方面より盛んに火の子飛び来り危険を思はじむ。崖下の方は一松氏の隣より発火して将に一松氏宅に延焼せしむとして居り是又危険至極なり。最早絶望と断念す。 この時は北風猛烈にして到底人力にて防御し得ざる事明らかなれば皆に避難を命じ、新一(注;浪平の長女百合子の子供即ち浪平の孫 建築家)を尋ねたるに見当たらず。マゴマゴしている間に危険は刻々に迫り来るをもって最早や猶予ならずと、也笑を促して壕より出でしめ避難する事とせり。 也笑は壕の中より玉子を数個持ち出したれば之を分けて飲み二人携えて逃げる。也笑は途中にて伊勢利前の裏門を鍵を以て開門したるは、後にてこの為多数の人命を助けたるを知り感心したり。この火災の大体と避難の模様は日記にあるを以て略す。 火災に遇ひて最も残念に思いたるは余の日記が全部焼けたる事なり。日記は十四、五歳の頃より継続して今日に至りたるものにて、現に第六十八巻を記載しおるものにして余の一生の経路が明らかにせらるるなるものなのに、之を亡失しては最早日記を書く勇気も無く、極言すれば仕事をするも厭になりたりと思いたるに、幸いにして倉庫の一部が残り、日記は亡失を免れ非常に喜び勇気百倍の感ありたり。 只倉庫に入れず書斎に置きたる第六十六巻及び六十五巻の二冊を焼きたるは残念なり。焼残りたる日記は小石川道場の倉庫に格納し置き、去る六月十日之を整理したるに高等学校時代のもの、和本にて筆書きしたるもの数冊見当たらず、或いは片町の倉庫にでもあるかと共方も探したるも遂に見当たらず甚だ残念なり。何処か意外なる処にでも混入せられるものか或いは盗まれたるか。 焼け出されたる不自由は季節の変わり目に痛感する。今の夏のシャツなどに不自由を感じ居る。左様かと云うと一時は安全カミソリに不自由を感じ至るに、この頃は各所より寄贈せられ其の替刃の如きは多数集まり、今後一生研磨せずに使用しても差支なきに至りたるは有難き限りなり。写真は大体焼け残りたるも 写真機と活動のフィルムは全部焼けたるは惜しき限りなり。(中略) 戦災を受けて身軽になりサバサバして活動に便利になったとは、単に負け惜しみのみに非ず 罹災したる吾等の真意なり。之れを以て前線と直結せられ、自分も戦線の一員なるの誇を感ずる様になりたる有難き極みなり。但し婦女子にありてはあきらめ兼ねる幾多のものある事は否定出来ぬ。 三組町宅罹災後二ヶ月半にして五月二十五日に小石川林町宅罹災す(中略)。三組町も林町も何れも高台にて眺望のよき所なるが、之れは余の住宅としての理想に依るものなり。是が又軍の要望とも一致せるものと見え、双方の土地が軍の使用する処となり、所有者なる余と雖も立入る事を禁止せられたるは甚だ遺憾なるも戦争なれば致し方なしとあきらむ。 三組町などは倉庫の建物が残存し共内容も一部残存しいるに、只一言挨拶ありたるのみにて強制的に使用せられたるなり。この如きは軍民の間隙を隔離する行為なるを以て内閣にても之れを憂い、先般この収容方法を地方長官依ること決定せるものなるを事実はこの如き有様なり。三組町宅は倉庫を改修して仮住宅とする計画にて、警視庁の諒解まで得たるものを惜しき心地す。 死見の歳を数ふるに等しきが、三組町宅は日本造りの離れ座敷と奏楽室とを取り除き置けば類焼は免れ得たるものを惜しき事したり。何処も多忙にてこの疎開作業を依頼するも気の毒と思い遠慮しいたる為、遂に茲に立ち至りたるは致し方なし。火災に対する倉庫の安全性を過信したるが過ちなりしが、実は食料の貯蔵庫丈けでも疎開せしむと、在来の植木室を改造して之れに収納せむと大工を雇い着手しいたるに大雪降り、その後大工の欠勤ありて尚両三日分の仕事を残して完成せざる内に戦災を受けたるなり。(中略) 焼けて惜しきものの内に余の年譜がある。之れは昨年日記を調べて書きたるものにて、日記が残れば再び之れを作る事は困難ならざるべきも余としては仲仲容易の業に非ず。而して高等学校の日誌と昨年分の日記とを紛失又は焼失したる今日に於いては尚更困難なり。 尚 惜しきものの内に吾家の系図を調べたるものあり。之れは母上のご在世中に母上の口授を筆記したるものにして、記憶力良き母上の話なれば今より数代前の事まで明瞭になりたるも、余は記憶悪しき為僅かに三代前を知り居る程度なり。合戦場に行きて調ぶれば 尚判明する事もあるべし。それも面倒なり。(昭和二十二年秋記)
父に早く死なれたるを以て思い出は少なき様になるも、余の今日あるの基礎は矢張り父が築き呉れたる事を痛感す。父は深き学問を受けざりしも常に何かしら仕事をせねばと気の済まぬ性質にて、種々の事業に手を染めたるも何れも失敗に終わりたる如く、四十九の短き生涯に於いては何も遺すべき仕事は出来ざらしなり。...
兄は明治四年二月十二日に生まれ、郷里合戦場の小学校にて教育受け秀才の誉れ高かりき。十二、三歳の頃に退校して栃木のある漢学塾に入りて勉学し居たるが、明治十七年の頃東京に遊学し、漢学は蒲生塾にて、ドイツ語をドイツ協会学校にて勉強し、明治二十二年第一高等中学校の入学試験に応じ優等の成績にて入学するを得たり。ドイツ語専門にして医学を志したるなり。その翌年二十三年十二月父の死に会し、涙をのみて高等中学を退校して郷里に帰家するに至りたりなり。 兄は栃木に通学せる頃より詩に長じ多数の作詩あり。高等中学を退校して帰郷せる後の悶々たる鬱情はその詩によりて吐露せらるたり。何故に退校せるかは言うまでも無く、父の残したる借金は余等二人を東京に遊学せしむる得ざる経済的事情に他ならざるなり。 而してその貧乏籤を引きたる兄なり。秀才なる兄は遂に犠牲となりて郷里に帰り、余は次男なるが為に遊学を続くるに至りたるなり。 兄は一言の不平も言わず長男の義務として一切を断念し、青雲の志を捨てて栃木町の四十一国立銀行の最下級事務員として使用人生活に入りたるは何とも気の毒なる次第なり。 兄は 実際は兄に非ずして 父に等しきなり。余が大学を卒業する迄前後十年間の何等の滞りも無く継続し呉れ、余をして全く後顧の憂いなく専心勉強し得せしめしたる恩は真に親以上と思はざるを得ず。余は明治二十一年四月父に連れられて始めて上京し東京にて勉強すること事となり、東京英語学校に入学する事を決するも、入学の手続きを為すも皆兄の盡力に依る。 浅草代地の平井氏方に下宿していても毎日本所区緑町より来りて相会ひ相談るを楽しみとしたるなり。或時は本所の奥、今の錦糸掘りのあたりまで釣りに行き、或時は小鳥篭を提げて上野の山に小鳥捕りに行きたるなど忘れ得ぬ数々の思い出が残りいるなり。余も確かに兄に対して従順なりしが 兄が弟の面倒を見る事の周到なりしは忘れるるを得ざるなり。 兄は郷家の事を世話する事は自分の天職と覚悟したる如く、何事も兄を煩ししたるは余一人のみならず弟妹何れも同じ事なり。何れも相当の年配になりて後までも皆兄の厄介になりたるなり。去れば余の戸籍などは大正三年頃まで郷里の兄の戸籍内に抱合わせたるなり。是れ母の存命せる為にもあるが兄の万事に対する世話が離籍せざるを便とる為めなりしなり。 兄は弟妹六人の面倒をみるを自分の天職と思い居るかの如く能く世話し、明治二十四年より昭和五年十月迄約三十九年間銀行に奉職して四十一国立銀行、より東海銀行、更に変化して第一銀行栃木支店となり、最後にはその支配人となり第一銀行宇都宮支店長を兼ねるに至りたり。仕事は小なりと雖も共最高の地位に達し、勤勉と誠実を主義主張として栃木町、否や栃木県下に相当の地位を占むるに至りたるは志操の堅実なりし証左なるべし。 銀行を辞めて以来は全く悠々自適の生活にて、二、三の友人と旅行するを楽しみとし、東北地方、九州地方、樺太及び満州、朝鮮まで羽翼を伸ばしたるは洵に羨ましき限りなりき。 晩年は郷里の事にも力を致し灌漑〇筒の設置、合戦場会議所の建設、八坂神社への寄付などその他枚挙にいとまあらざるべし。
郷里合戦場の小学校(注;写真は昭和10年に取り毀時の淑愼学舎)はその設備も教師も到底父の満足を得る能はざりした当然なり。これに反して栃木の小学校は田舎には稀に見るべき小学校にして、校長先生は高等師範の卒業生にして月給百何十円なりとの評判なり。...
留学とは可笑しき標題なるも、この頃の東京遊学は今の欧米留学にひとしかりしなり。 鉄道は東北線が上野宇都宮間が落成したる位なるべし。両毛線は工事中にて汽車に乗るには小山迄人力社車に拠らざる可からず。(注;写真は明治21年5月22日始めて両毛線栃木駅に入って来たSL)...
総ての学校時代の内最も楽しかりしは高等学校時代なりき。 これは吾輩のみならず総て学生生活をなしたる人の経験なるべし。 去ればこの校の志望者は圧倒的にして、実に高等学校は天下学徒の目標となり、これを登竜門として殺到し来たる事明なり。吾輩は明治二十三年七月、父未だ在世中に一度この入学試験を受けて落第す。...