浪平は明治23年12月に入婿した商人であった父親(惣八)を亡くす。兄(儀平)は第一高等中学校を中退し地元栃木の銀行に就職、慈母と共に小平家を守る。その支えによって浪平は学業を続けることが出来るようになる。
こうした支えに深く感謝しながら、浪平は他方でこの時代の自主独立の精神を大事にし、その両者の葛藤の中から、次第に人生観を磨いていった。(注;小平家の家系は「身辺雑記」の家系欄参照)
二月十九日(注;明治26年、浪平高等中学校1年)
家 兄 (注;儀平)上 京
余は直に上野なる停車場に至りて兄上の上京を待つ。九時半頃汽車は着きぬ。兄上、くわ、勲の三人は来れり。余は先に本郷に至る。兄等は車にて至る。程なくして午食を饗せられ兄上は浅草本所に至り、余は伯母、小雪、くわ、勲等と上野なる動物園へ至りて見物す。勲の喜び例へんものもなし。
夫れより鉄道馬車にて浅草に至り観世音に詣でり。勲、鳩を見て又驚き又喜び、或は捕へんと追ふなど面白き事限りなし。仲見世にては余り欲しき物多くて何を買ひたしとも云はず。吾妻橋の壮観を見せ、又鉄道馬車にて上野広小路に至り、達磨汁粉にて鮨など饗せらる。三時半帰れば兄上も既に帰れり。五時、間中氏を発して上野停車場に至り兄上と勲と帰郷す。くわは爾後在京なり。
ふる里にありにし時は思はねど遠き都にあひしときこそ
三月三日
毎思曾遊豈莫顰 夢魂夜々問帝闡
墨陀江畔花千朶 白子村頭月一輪
更老厳霜壓孤劔 春深短艇芳泛沢
数奇今日漫休笑 我亦当年得意人
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(注;意訳)
・曾て遊学したこと時のことを思うたびに無念の思いに顔を顰(しか)めてしまう。・夜毎夢に見るのは帝都のこと。
・隅田川河畔には桜花が咲き誇るが、・私が住む村(注;合戦場)の上には 月が一つ懸るだけだ。
・ここでは厳霜が年経た孤独な私を圧する。・春たけなわの川面にはボートが浮かんでいるが、
・不遇な私を笑わないでくれ、・私もかつては得意の若者だったのだ。
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宇宙を呑むの大志も半途に破れ、山海を覆すの謀遂に就らずして田間の一農夫となる。其意又思ふ可し。只之をして快ならしめ、之をして満足せしむは只我のみ焉。
三月三十一日
帰 省
伊豆の天のどかならざるに非ず。筑波の山趣きなきに非ず。東京湾の岸を迂廻し、春風に満帆をはらませたる様見つつ、歌ひ且つ吟ぜば春日の長きも為に忘る可し。
熱海の勝、箱根の致、皆吾人半年の労苦を去り、観察の思想を富ましめ、箱根山頭遙に西を眺むれば残雪のいと白き富士の高峯を見し時は、必ずや吾人大和民族固有の美想を充満せしむるならん。筑波の山に登りて利根の平原を臨み、関東の平野を見ば豪傑乎たる英気を養ふを得ん。
然れども芙蓉の峯、函関の色常に変らじ。筑波のながめ幾千万の星霜を経るも風色の移ろう事なからん。人生は朝露の如しと、今又夕を謀らず。幸にして天命を伸ぶるを得るも今日の紅顔は明日鬢髪霜を帯ぶるの人なり。
われ幸にして家に慈母兄弟妹あり。常に満腔のよろこびを以て余を迎ふ。慈母常に児に告げて曰く、児よ汝は何ありて郷に帰るやと。余又黙然として答ふる所を知らず。慈母又曰く、児の其理を知らざる又然る可きなりと。
蓋し慈母も亦何の為に余を待つを知らざるなり。親子の其会する哉何の語る所なきも、無言の内能く千万無量の言語は互に其胸裏に往来するものなり。而して其無言の会話は一日両日の能く尽す所に非るなり。
我は一個の青年なり。慈母は尚ほ壮なり。而して吾人の最も楽しきの時なり。是れ余が今日大に決して伊豆熱海を後にして、袂を振ふて慈母の膝下に至る所以なり。
八月六日(注;明治26年の夏休み中、翌9月より高等中学2年生)
祭祖母(注;祖母ヨシ)の三回忌)
回顧スレバ将ニ二年ノ前ナリキ。時ニ余ハ学ヲ高等中学ノ入門ニ試シ、戦々又恟々、而シテ幸ニ其末位ヲ穢スヲ得タリ。未之ヲ家ニ報セズ。飛報来リテ告ゲテ曰ク、
前略、例の試験は第二期まで無障相済候趣承知仕候へ共、第三期は御通過被相成候や、其後更に御報無之心配仕候。次に老母儀、本月上旬より病気にて危篤に御座候へ共、貴君を煩すを恐れ今日まで御報不申上候へ共、御用相済次第至急御帰郷可然と存候。(下略)
嗚呼此ノ飛報ハ余ノ胸中ニ的中シ、千斤ノ砲丸ヨリ心胆ヲ苦シメタリ。当時余ハ試験将ニ終リ、千斛ノ喜ビト万斗ノ満足ヲ載セ、恰モ蘇秦ガ六国ノ相印ヲ帯ビシ時ノ如ク、錦繡ヲ飾りて郷ニ帰ラントセシ時ナリキ。
誰カ知ランヤ此ノ設計モ亦夏雲ト共ニ去り、留マル所ハ一片悲哀ノ情只ダ祖母ノ病ヲ案ズルノミ。満足ト喜悦ヲ載スル鉄車ハ涙ト苦慮ヲ載スルノ鉄車ト化シ去リヌ。挙家ノ歓迎モ空シク悲惨ノ涙ヲ混ズルニ至リタリキ。
余ハ家人ニ答フルニ暇アラズ、即忽祖母ヲ見舞ヒヌ。病衰玆三旬顔色憔悴トシ眼明ヲ失シ、又此ノ孫児ヲ見ル可カラズ。余惨然トシテ涙ヲ流シ曰ク、孫児将ニ帰レリ、希ハ自ラ心ヲ強クシテ再ビ幸福ノ日ヲ迎ヘラレヨト。祖母聴キ怛々タル声ヲ発シテ曰ク、児帰リタル乎、吾レ病ニ臥シテ立ツ能ハザル三旬、常ニ児ニ一回ノ語ヲ交セン事ヲ願へり。
然レドモ児将ニ一世ノ大機事ナリト聴キ、再ビ児ヲ見ル可カラズト信ゼリ。然ルニ児将ニ好結果ヲ得タリト告グルモノアリ、而シテ児帰ラズ、吾レ心私ニ之ヲ怪シメリト。吾急ニ語ヲ次デ曰ク、乞フ安堵セヨ、児真ニ好果ヲ得タリ、他日国家ノ為メニスル緒ハ漸ク開ケリト。
祖母又曰ク、真ニ然ラバ余ノ喜悦何ゾ之ニシカン哉。聴ケ児、汝父ヲ亡テ養ヲ兄ニ受クルニ非ズヤ、若シ心アラバ自ラ戒メ自ラ計リ、他日ニ計謀ヲ為サザル可カラズ。児将ニ来ル又謂フナシト。居ル数日、老衰愈々深ク又恢復スベカラズ。去年今月今日終ニ永逝ス。享年七十八。
思へば温乎タル其容、靏然タル其語皆ナ耳目ニ集リ、吾又言ハント欲シ言フ可カラズ悲哉。
早朝五十嵐伯母来りて墓参す。
明治二十八年
七月二十日
朝神田文房堂にて手帳を買ふ。
午後二時半発の汽車にて白袴に駒下駄を穿きて帰郷の途に登り六時頃帰着す。夜に入りて妹来る。余の来りしを知りて来りしやと問へば、然らず病気なりと答ふ。
嗚呼多幸なる余も今年に至りて又不幸の児となりぬ。家に帰りて水泳の自慢談も為す元気抜くるまでに患ふる事を生じ来りぬ。其重なるものは慈母の衰弱、家兄の衰弱只ならぬこと、兄嫁(注;先妻のチカ、肺病)の病気の殊に恐るべき、況してや妹も亦同じ病気なりとのこと、天道は果して是乎非乎。
七月二十二日
母は妹の病気快からぬを思ひて、終に意を決して東京にて治療する方が好からむとて、本日の一番汽車にて上京す。
七月二十三日
家業(注;この時期は 製茶業)の多忙なるに母は居らず、余と兄嫁と二人なれば、万事不案内なれば忙しきこと謂はむ方なし。暮方敏次郎氏脚気病の為め当地に来り、当分滞在することとなる。
七月二十四日
多忙なる為め家兄は銀行を休む。夜母上帰着す。
七月二十五日
何か用事ありとて敏次郎氏は金崎へ行く。
七月二十七日
余が帰郷する前日上京したりし五十嵐伯父東京より帰る。
七月二十八日
家兄は粟野村に行き敏次郎氏は金崎より帰る。
七月二十九日
五十嵐伯母来る。伯母の来るこれ何の用ぞや。余は涙なき能はず。
七月三十日
五十嵐伯母帰る。家兄の決答は如何にと云ふに「必ず他人の手を労せず独りにて結着せむ。」とありたりと。
七月三十一日
暮れに兄嫁栃木に至る。何の為に至るぞ、余は再び相会せざらむことを悲しむなり。正に是れ人生最大悲恨の時、家兄の顔を見るも気の毒なりと思ふ。去りながら此の如くなさざれば、又一層の悲恨を演出せむとす。何ぞ忍ばざるを得むや。
八月一日
間中伯父及大塚要吉氏来り(午後七時頃)直に夜食して金崎に至る。大塚氏は鈴木要三氏の男にして、久しく家出して今回北海道にて亜麻紡績事業を思ひ立ち、要三氏に乞ふて器械を借らむとして来りしなり。
(注;鈴木要三は地元の薬種商。当時栃木に進出した安田善次郎と鹿沼に製麻会社を設立し成功した。浪平は日光行きのついでにここを見学している。また、兄上は栃木の第四十一銀行に勤務)
八月二日
黒川安吉氏(注;妹満舞の夫)来る。昼食を饗して閑話す。帰途余を誘ひしも余は故ありて固く辞す。
八月三日
間中伯父及大塚氏帰り来り大塚氏のみ直に上京す。要三氏に対する談判遂に纏らずと。
八月八日
憐むべき妹満舞は間中の伯母に送られて帰り来りぬ。彼女の病気も少しく快しと見ゆれど、例の恐ろしき病なれば如何にや。妹は直に来らずして黒川に立ち寄りて当方には来らず。
二時頃伯母来りぬれば、予ての家兄に対する相談もあればとて、五十嵐伯母を迎へんものと人を派す。
余は弟勲に勧められて二股の川に水泳す。水清くして心地好し。暮方鮎売りより鮎を買ふ。夜雷雨を冒して五十嵐伯母来る。土産として鮎を貰ふ。此日渋紙を張る。
八月十日
早朝妹は偶然に来る。余は裏に在りて渋紙張りに余念なし。
八月十一日
母は涙を流して余に語りぬ。余の腸は正に九折したり。吾れも大に覚悟する所あり。
八月二十日
日 光 山 行 き
例年の通り今年も男体山道者となりて旅立ちぬ。空模様悪しく今にも荒れむとすれども、思ひ立ちたるものなれば、午前五時半頃旅装を終りて出発す。今年は例年に比すれば何となく足の弱きが如き感あるは如何に。
金崎に至りて五十嵐を訪ひて鹿沼にある製麻会社の観覧紹介を貰ひて、やがて九時半頃鹿沼に着きぬ。製麻会社の事務所に至りて其由を告げて一覧す。
製 麻 紡 績
未だ珍しき水力利用の工場なればこそ、余は他日の参考にもあらむとて見しなり。其紡績事業の如きは余り心に留むる所ならねど、一見すれば如何にも面白く、麻を半断して之を打ち、之をむしり、之を綿状になし、之を紡ぎ、之を織り、雑然として各其職に経々たり。発動機の所に至れば一層珍し。車輪は一つも見ゆることなく竪の軸が非常の音をなして廻転するは、今まで蒸気機関のみを見たる目に何となく物足らぬ心地すれども、熟考すれば之が即ち利器の利器たる所ならめ。
広くもあらぬ工場、且つは余も急ぎたればやがて十時少し過ぎに見終りぬ。再び事務所に帰りて二三回の問答をなして停車場に至りしに、今汽車の発車せる所なりき。