一高、大学を通じ、数多くの学友とスポーツ、趣味を同じくすると共に、様々な友人とひっきりなしに談話し、小料理屋、レストランに繰り出している。旅行、趣味などの出費も併せ考えると、比較的優雅な学生生活を送っている。
一方で、病を苦にして京都の下宿で友人が自死した際には、現地に飛んでその対応に当たるなど、お互いに困った時に助け合う友情には熱いものがある。
なかでも、学友の葛西精一氏から相談(注;鹿島家からの養子の話)を受けるくだりは、小平翁に対する友人たちの信頼が如何に篤いものであったかを示す格好の例である。
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(葛西氏談)
「余の父は早く没して母一人に養はれぬ。多くもあらぬ財産なれば、何時か將尽きむとして余が尋中時代には幾度か退学せむとしたりき。遂に叔父の家に寄りて母と共に養はれたり。程なく叔父は病気に罹り、其一家離散するに至れり。
之より先東京の鹿島某当時土木工事の為め県下に来りて叔父の隣家に住す。余の叔父の家の離散するときに、鹿島は余を東京に連れ帰りて学事に従はしめむとしたり。
余は小児なれば喜むで出京したり。(中略)余が高等学校に入りてより鹿島は益々余を信用したり。其子弟の監督を余に委ねたれば、余も一身を以て此の浩恩に報ぜむと期したり。鹿島の子に男子あるも之は正当の子に非ざれば長女に養子するとの話は予て聴きしが、数日前に至りて余を養子にせむと余の母まで申し越したり」
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これに対し浪平は、是非養子縁組を受けるべきことを強く勧め、他の誰よりも自分に相談してくれたことに感動を隠さない。(注;上記の話は日記には書いていないが 浪平自身の伯父五十嵐家からの養子縁組み問題と考え合わせると面白いし、日立の工場建設の大半を鹿島にお願いしたのも 又孫の岡田新一が東大の建築を卒業し、鹿島建設に入社し、建築家として活躍したのも このご縁であろう。)