4,村井弦斎氏等との交遊

 

 先達との交流では村井弦斎氏(写真)が重要。村井氏は幼くして漢学を学んだ後、20才で論文の懸賞を得てアメリカで1年間学び、帰国後一時小平家に食客として寄宿、その時儀平・浪平の家庭教師をした由。日記に書かれた時期は、ジャーナリスト、SF作家として活躍していた。

 

 浪平は村井弦斎氏との交遊を通じて、アメリカという世界を知り、又20世紀の日本の将来にとって電気工学を学ぶことの重要性を確信。

 

明治二十六年

十月二日

 我れ嘗て今の弦斎居士村井寛先生(注;「寛」が本名で「弦斎」はペンネーム)教を受けし事あり。別れて既に六年、未だ一回も之を訪ふ事なく、又書信の往復もなかりしが、思ふに是れ我が過なりとは常に思ひしも未だ音信せざりしが、益々長くなるを恐れて、意を決して書を送りて無音を謝す。

十月四日

村井氏より来状す、曰く来り遊べと。

十月八日

 村井氏よりの来状草々其居を訪はばやと、朝七時頃より出でて行く。九時過ぐる頃、緒明横町なる先生の居に着きぬ。書生の案内に連れて二階なる客間に通りて暫く待つ間、程なく先生入り来りて先ず無音の詫せばやと思ふも、例の咄弁、思ふ半ばも謂ふを得ず。只だ先生が栃木は如何にと問へばかくなりと答へ、日光の山を跋渉せしやと問はれて然りと答ふ。問はれし事のみを答へて新に題を作りて話題を開く事能はず。偖も愚かな我れなりと自ら悟りぬ。

 

 去れど世故に長ずる先生なれば、何やかやと問ひつ語りつ午食を饗せられ、程なく先生の謂へらく、余れ元来海を好み、小舟を棹して釣を垂るるなど最も楽しみとする所なり。今日は東風ふきて釣は如何はしき事なれど試みに釣を投ぜんと。余も大に喜び共に小舟に乗じて試みしも、思ふ様に得物なければ舷を廻して岸に上り、別を告げて四時三十分の汽車にて帰寮す。

 

明治二十七年

五月十二日

訪弦斎先生

 去年の吾れは早や今年の吾に非ず。此の紅顔明日は即ち白髪の人となる。歳月の流るるは矢の如しとは古人の言なり。其速なる事豈に啻に矢のみならんや。今日の書生又長く書生たるを得んや。

 

 運動場裏に馳せ廻はりし此の呑気なる時代も、いつしか風波荒き社会とやらに出づるならんと知り始めし今日此の頃の気の忙しさ。思へば思へば浮き世いやなりと謂ふものの如何にせん方なく、此の世に出づる手段とて先ず定むるものは目的なり。

 

 此の目的吾れ定め得ぬには非ず。幼き頃より何となく好む工学を修めんものと思へども、偖て今日となりては何の工学を修む可きやは一問題なり。

 

 火薬面白からず採砿、冶金も覚束なし。造家、造兵とて吾が好む所にあらず。されば造船、化学応用、機械、電気なんどは其の志す内なれども、何れを選ぶやに至りては其方法に苦しまざるを得ず。

 

 尤も独断にて為し得ざる理由なきも、未だ年も長ぜず志想も熟せず、殊に経験と云ふ一大要素を欠き居れば、なまじいに独断して失敗せんよりは、寧ろ何となく先輩の意見を叩くに如かず。

 

 先きに村井寛先生は古き知人にして、且つ世故に通ずる人なれば其意見を聞かばやと、学校の終るや否や馬車に乗り、汽車に乗りて品川の偶居に訪ふ。

 

 先生幸に家にありて其意見を説き、今日の時勢と将来の気運及我国利上電気工業の必要を説き、世人の迷夢を覚破せざる可からざるを説けり。

 

 余も深く其説に感じ且つ平常の素志なれば、其意見に従ふ事となしぬ。

談は四方山の話となり運動の話となり、遂には射的、弓術など為して充分の歓を尽して帰り、着寮したるは午後六時なりき。

 

九月十四日

 村井弦斎先生を品川に訪ふ。夜古山氏と小梅月に菓子を食ひビールを飲む。

 

十月十四日

 村井寛(注;弦斎の本名)氏の令父病没せられ、本日谷中の永久寺に葬送せらるるにつき、午後より永久寺に之を送る。

 

十二月二十一日

 午前国文の試業あり。午後直に品川に至りて弦斎先生を訪はんものと新橋より汽車に乗りしに、大沢貞司(注;父惣八の大澤本家の長男、浪平の従兄弟)に会す。横浜に至るとか。

 品川に至れば先生は昨日芝公園に転居したりと、空しく帰る。途に間中に寄る。

 

明治二十八年

六月三日

 村井寛(注;弦斎)氏より来翰す。曰く、大澤貞司より余の消息を訪ひ来れりと。余其何の意なるやを知らず。

(注;貞司は浪平と同世代で弦斎が栃木町に逗留中に浪平と一緒に「文章規範」等の素読をしていた。浪平は父親の本家大澤家とはそりが合わなかったのか、これ以降日記には大澤家登場せず。その理由として大澤本家の長男大澤文藏(戸主)は妾を囲って宇都宮に転居、次男の弓田彌平(倭町の漆器商に入婿)は浪平の学資を出すと言いながらこれを反故したため、兄儀平が一高を退学をせざるを得なかった等々浪平の倫理観に合わなかった。)

 

六月七日

 先日村井氏より来翰したり。何か意味あるらしければ訪はむものと思ふ。(中略)七時半より村井氏を芝公園の居に訪ふ。君幸に家にありけるが人の訪ひしものあれば暫く待ちしに、程なくして出で来りて何となく四方山の話を為す。別に変りたる様子もなく、且つ新聞社に出で行くの様なれば十時頃に帰途に就き、十一時半に帰寮す。

 

明治二十九年

四月五日

    玉 川 行

 朝八時より村井弦斎氏を麻布本村町に訪ひしに幸に氏も在宅せり。種々談話せし末に氏は余に向て二子辺へ遠足せずやと謂ふ。余も好むことなれば相談一結して書生一人を連れて出発す。氏は下駄なれども脚絆などはきて出発す。麻布より目黒のビール会社の際を通り、不動を左に見て三里ばかり行きて玉川畔に至る。高き所に西洋人の別荘あり。其下に稲荷あり。其所に甘酒屋あり、一杯を傾く。

 

 二子の渡場を渡りて二子村に至り、亀屋と謂へる料理屋にて昼食す。座敷は奇麗にて玉川の清流を眺め、料理には鮎あり鯛あり仲々甘し。此の所を立ち出でて玉川の岸の小石原を下りて、丸子の渡しまで来りて帰り路に就く。

 

 二子より丸子まで一里半ありとかや。帰途洗足池を見る。池は固より小なれども清灑たる趣あり。中に島ありて日蓮上人の旧趾などあり。村井氏の宅まで帰りしは八時半頃なりき。これより湯にて体を拭ひ、夜食を饗せられ又手製の草餅など饗せられて、九時半より帰りて鉄道馬車にて帰寮す。時に十一時過ぎて消燈後なりき。

 

明治三十年

三月二十一日

 午後多田を訪ふて同宿者なる葛西(注;のち鹿島家に入婿。鹿島精一で鹿島建設社長)、鵜飼等と散歩して一同余の所に寄る。帰りて川北氏来訪して村井氏に紹介状を依頼せらる。

 

四月八日

 川北氏より依頼されたる件に就き朝七時半頃より麻布に村井氏を訪ふ。今日は種々の質問を受く。小説の材料にするなればとて取調を依頼せらる。

 

『明治百話』(篠田鉱造著・岩波文庫)という本がありますが、その本の推薦文に次のような紹介があり。「(著者の)篠田君は報知新聞記者として、多年村井弦斎氏の指導を受けた。弦斎氏は常に事実に重きを置いて、記者を訓練した人である」。浪平は弦斎先生から実証主義的方法論を感じ取ったのかもしれません。

 

<人徳を学んだ倫理教師;宇田康平との交流>

 

 また、村井弦斎氏と並んで、第一高等中学校の倫理教師であった宇田康平氏(注;栃木市永野出身で、大学時代の後半は間中伯父の病没により、浪平の身元保証人となっている)との交流も浪平にとって大切。“質実剛健“徒に名利を求めず”と云う点で、宇田氏とは共感する所があったように読み取れる。 

 

明治二十六年

六月二十六日

 宇田先生を訪ふ。先生の説を聴きて始めて福島中佐帰京を見物するを面白からぬ事と思ひ、急に帰郷を思立ち、明日出発せんと入谷及浅草に至れ帰れば、間中氏より来状ありて、伯母帰郷中に留守居を依頼せらる。

 

六月二十九日

福 島 帰 朝

 君が単騎鞭を挙げてベルリンを発し露国の平原に入り、炎暑酷熱を冒してサイベリアに入らんとするや、世人は之を賞して措かず。然れども多くはその成否を疑ひたり。君サイベリアに入りてより、酷暑は烈寒と化し、青草莽々の野は白雪皚々の氷原となりしも、万苦を忍び千難を排して将に帰らんとするや、日本人は皆其壮挙を賞嘆して止まず。

 

 故に君の帰るを待つ一日千秋の思ありき。君の長崎より神戸に入り、京、大阪、名古屋を経て横浜に至るまで、金銀の賞牌貴珍の貨物皆君の頭上に降下せり。君の京に入るや君を喜び迎ふる者幾十万人、皆帽を振り手を拍して君を迎へしに非ずや。勲三等の旭日章は君の眼と相映じ、破帽、素服と共に四隣を輝かし、大車に駕し、駿馬に鞭打ちて行く、其得意幾何なるやらん。

 

 君の為に立ちたる凱旋門は天を衝けり。歓迎場台は雲を凌げり。君が此の高壇に登りて四顧敬礼を行ひし風采の得意さよ。君は日本人種に険を冒すの気性を吹き込みし事少々に非ざるなり。君の遠征其れ自身の結果は余輩謹んで君の手際を拝見せんとす。乞ふ君勤めよや。

 

上野に至る、福島中佐馬車に駕して一時半頃来る。砂塵万丈炎熱酷烈。

 

明治二十七年

一月二十一日

 午前宇田先生を訪ひしに、先生何所へか転宅して空しく帰り、又間中氏を訪ふ。伯母のみ岩井(注;現在の茨城県坂東市)より上京せり。午後向島にボートを漕ぎ午後四時頃帰る。

四月二十一日

 福島中佐の演説あり、墨水(注;隅田川)には日本中学の競争会あり、何れと別からぬ面白さ、少しく選択に苦しみぬ。竟に意を決して競漕を見る。花の影だに止めねば何となく寂しけれど、新しき船の美しきなど好し。余も同窓会員なれば二回出漕して一回勝ちぬ。

 

八月二十五日

 野州永野(注;現在の栃木市永野)に一君子ありて宇田康平先生と謂ひ、第一高等中学校の倫理講義をなす。余幸にして先生の知を辱ふし、常に其徳高く学深きに心服したりき。学校の休暇中先生は永野の自家に帰るを常とせり。故に余も一度先生の高居を訪はんとせしも果さず、今年に至りて始めて其目的を達せんとて、早朝未明に起き出でて鍋山に至り、道を問へば三里とかや。急ぎて程なく永野村に入り、先生の居は何所なりやと里人に問ふに、未だ二里もありと答ふ。

 

 山間の谿流を伝ふて人家なき所を進みて野原の中に一開拓地あり。其奥に茅ぶきの農家あり。余は此の家に入りて先生の居を問ひしに、計らずも之れ即ち先生の高宅なりき。華美を事として徒に外見を飾る世の中の、所謂紳士をして先生の此の高宅を見せしめば、彼等に良心あらん限りは愧死するの思ある可し。

 

 家の囲も桑、竹などにて形ばかりの垣となし、名ばかりに門を入りて家を見るに、入口は農家の事とて炉あり、馬舎あり、臼あり、鍬あり鎌あり純然たる農家なり。加ふるに家人皆な弊衣破履を穿ち、家事を勤むるを見れば、益々先生の人と為りに服せざるを得ざるなり。

 余は入りて先生に謁を求めたり。不幸なる哉、先生は去る十五日より越後なる旧入門生に強て招かれ、之に赴かれたりと。余は失望して帰路に就けり。(四時頃着)

 

明治二十九年

七月七日

 

卒 業 式

 午前九時より倫理講堂に於て卒業証書授与式を挙行す。校長の演説、証書授与、牧野次官の演説、卒業生総代山川弘毅氏の答辞等ありて散会す。茶菓の饗応あり。午後校庭に於て一同撮影す。

 

 是余が五年間の生活を終へて送り出さる卒業式の略記なり。如何に面白味なく此の楽園を放逐せらるるなるや。想へば名残り尽きせぬ心地するなり。此の日にあたりて余は過去五年の経歴を列挙せむ乎、これ余の欲する所に非ず。何となれば五年間は愉快の歴史なるも、而も平々凡々の経歴なればなり。何故に平凡なりしか、試にこれを此の晃南日記に問へ。

 

(中略)三時頃より開花楼に開かれたる卒業宴会に臨む。会するもの七十余名、面白きこと一つもなし。他の学生は教授の許へ盃を献じて所謂御礼参りを為すものあれど、余は嫌なれば為さず。八時頃帰りて間中氏に一泊す。

 

七月八日

 午前七時頃宇田先生を訪ひ、一時間許談話して帰り、本郷郵便局にて為替(注;兄からの送金)を請取り、学校に至りて荷物を片付け昼食して間中に帰り(後略)

 

明治三十年

六月五日

宇 田 先 生

 午後は宇田先生を訪ふ。先生高等中学校にありて倫理を講ずること十年、徳高く学識博し、学生皆先生を敬したりき。今回職を辞して故郷野州永野村(注;現栃木市永野)帰臥(きが)せらるるとの事なれば、先生に別を告げむとて丸山福山町に至りしに、先生は早や下谷の親戚の許に移りたれば、直に踵を転じて竹町に訪ふて先生に面し、告別して帰る。

 

 浪平は読書からも人生観形成の糧を得たに違いありません。

 一つだけ例を挙げますと、当時流行した「進化論」についての所感があり。「進化論」には、“環境適合”という考え方と“自然淘汰”という考え方があると指摘。

 明治26年には、帝大総長だった加藤弘行が『強者の権利の闘争』という本を出版し、従来の“天賦人権論”の立場を明確に改め、大きな論争を巻き起こす。

 

 当時は一般に「進化論」は弱肉強食とか優勝劣敗というように生存競争と捉える考え方が支配的だったようですが、“環境適合”という側面を強調する浪平の識見は、卓抜なものだったと言える。

 

明治二十六年

一月十六日

読書所感(2) 

 進化説に二あり。

・一つはラマークの説にして、即ち外囲物の刺撃と其物の習慣により、其物の位置に適当なる様に至れりと謂ひ、

・一つはウェルスの説にして、即ち自然淘汰によりて然ると謂ふ。

 今前説を例せんに、阿弗利加にジラフと謂ふ獣あり。頸長くして樹葉の高き所にある柔き部分を食せり。 

 何故に此の用に適当になりたるやと謂ふに、ラマークの説によれば、食を求むる為め常に頸を伸ぶるを以てなり。

 即ち外囲物の刺撃に依ると謂ひ、又ウェルスの説によれば適者生存の理、即ち自然淘汰にあるなり。 

 即ち元来ジラフは頸の長きものも短きものもありしならんが、生存競争に至りて長頸なるものは柔葉を食ひて寿命を保ち、短きものは食物の不良よりして其子孫を繁殖する能はずして、長頸の子孫益々繁殖して短頸は皆無となりしなり。ダーウインの進化説はラマークの説の如きものならむと考ふ。

 

 『弦斎・浪平の 師弟 交遊』

 

 明治・大正のベストセラー作家、村井弦斎は、桜田門外の変の3年後、 幕末を迎え時代が騒然となりだし た文久3年(1863年)、三河(豊橋市)の吉田藩の武家の子として 誕生。

 

 父も祖父も儒家で、特に漢学をよくした家柄だった。 弦斎の作家活動は二つの時期に分けられる。

 

 最初の時期は米国遊学前の 20歳の明治17年から 明治 33年の 16年間。ユートピアンとして、多くの科学(SF)小説を書いた。

 

 次の時期は、その後、昭和 2年に63歳で病没するまで 23年間、現代グ ルメ小説の先駆けとなった『食道楽』を著し、一躍ベストセラー作家となった。

 

 弦斎はその印税で平塚市に16,000 余坪を買い求め、自宅 を建て、作家活動の拠点とした。

 

 弦斎の父清は、戊辰戦争の奥羽 越列藩同盟に参戦し、幕軍だった 為、維新後、一家は貧窮の底に落 ちてしまった。

 

 社会の変動を目の 当たりにしたことから「息子には 漢学だけでなく、洋学も早くから 学ばせたい」と考えるようになり、 明治 2年に一家で上京した。

 

 子供 に夢を託したのは浪平の父惣八と同じであるが、弦斎の父は、渋沢栄一 の子供達の家庭教師をしていた程の 漢学の教養人であった。

 

 弦斎は幼少の頃から、露語の家 庭教師をつけられたり、漢学の塾 に入れられたりして、早期の英才教育を受けた。明治 5年に東京外 国語学校が開校すると 12歳で受験させられる。

 

 明治17 年には論文募集で入選し、1 年間の米国遊学の懸賞を得て、 20歳で渡米。露系 移民の家に学僕として住み込み、 英語を学び、働きながらつぶさに 幸福な家庭生活、女性が尊重され る社会を眺めてきた。

 

 帰国後の 1~2 年は、東北方面へ放浪の旅をし ていたが、この時期に浪平の父と 知り合い、儀平・浪平の家庭教師をしな がら小平家の食客として逗留して いた。

 

 その後、浪平が社会人になって からも、二人の交遊は続いた。弦斎は躁鬱病の気難しい性格ではあったが、 素直な浪平を弟のように可愛がった。時には御馳走し、時には舟釣りを楽しみ、弦斎夫妻と浪平が連 れ立って鎌倉旅行に出掛けることもあった。

 

 又、浪平も、日立創業直後の大正元年に、弦斎夫妻を日立鉱山に招待。自ら設計施工した取水堰、 導水路、発電所、変送電設備、電車軌道などの鉱山インフラを案内 した。弦斎は興味深そうに、つぶさにそれらを見て廻ったと云う。

 

 弦斎は「浪平は、俺の『二十世紀 の豫言』 通りに一歩踏み出 したな」と感じ、浪平の将来を心強く思っていたに違いない。

 時は流れ、弦斎が昭和 2年に病没すると、平塚の広大な屋敷を維持するのは難しくなった為、弦斎の妻多嘉は浪平に相談。

 

 浪平は二つ返事で広大な土地の1/3を買 い取り、70余坪の別荘を建て、ここ でも「大日立の構想」を練った。

 

 浪平は、九州・中国・関西方面 出張の帰りなどには、別荘の隣に 住んでいた多嘉宅に立ち寄り、珍 しい食材を届けるなど、家族も含 めた『弦斎・浪平の 師弟 交遊』 は、 浪平が没する昭和 26年まで、半世紀に亘って続いた。

 



村井多嘉子(弦斉の妻)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%BA%95%E5%A4%9A%E5%98%89%E5%AD%90


浪平の平塚別荘

 別荘は昭和20年の空襲で焼失。現在は「弦斎公園」この近くに「浪平別荘地跡地碑」がある。

弦斎と浪平の関係年譜(PDF)

ダウンロード
弦斎・浪平関係年譜.pdf
PDFファイル 426.1 KB

村井家と渋澤家との関わり

 村井弦斎の父清は渋沢別邸で、歌子、琴子、篤二の三人に漢学を教えた。

・歌子は穂積陳重に、琴子は阪谷芳郎(後の大蔵大臣)に嫁す。

・篤二は結婚後、新橋芸者とスキャンダルを起こし、廃嫡となる。

 

 『「食道楽」の人 村井弦斎』によると、渋沢栄一自身、妾を抱えていて、再婚の際に村井清が妾問題の処理に当たった可能性が高いらしい。

 

 また、父清は「龍門社」(渋沢の書生達の団体)の顧問格で、「龍門雑誌」にたびたび寄稿している。 

弦斎も明治1911月にこの雑誌に寄稿している。その内容は文明国人として恥じない人物になる為の、人生の心構えを示したものだが、その一項目に不品行の例として「有妻の男子にして公然と妾を蓄へ花街に遊ぶの如き」ことが挙げられており、渋沢栄一を批判する形になっている。

これはアメリカから帰国した翌年のことである。

ちなみに弦斎の妻は友人尾崎藹吉(あいきち)の妹多嘉子である。多嘉子は大隈重信の再従姉妹(注;はとこ)にあたる。弦斎は稀に見る愛妻家であった。