5、絵画

 明治二十六年に黒田清輝がフランスから帰国し、日本の絵画界に新風を巻き起こしたようです。特に浪平が見た、明治27年11月9日の油絵展の清輝の絵は朝妝だと思われます。この絵はフランス留学中に画かれたもので、翌年(明治28年)の内国勧業博覧会にも出展したところ、世論の賛否を二分する「裸体画論争」を引き起こし、腰の部分に布を巻き付けての展示を余儀なくされた。

 

 そんな雰囲気の中でも、浪平は芸術の分野における新しい傾向に理解を示しているように読み取れる。

 

 また明治31年には、東京美術学校の内紛の結果、岡倉天心が校長の座を追われ、雅邦、観山、大観等と共に日本美術院を設立。その第一回展覧会(共進会)を観に行った様子が11月15日の項に記されている。

 

明治二十六年

四月二十六日

 午後再び油絵展覧会を見る。渡辺文三の富士の山及び稲村ケ崎の図あり。又佐々木三六の鷲の図あり。其他古山氏の門人数人の手に成る大演習の図は、擦筆の大画にして人目を引けり。

五月十三日

 高野氏の油絵展覧会を見る 

十一月二日

 再び美術展覧会を見る。

十一月三日

 岡田、内藤、飯泉諸氏と油絵沿革展覧会を見る。

十二月二日

 本校画学会の展覧会を画学室に開く。

 

明治二十七年

一月九日

 夜井手氏と神田を散歩し月耕の美人画二枚を求む。

十一月九日

 午後三時より画学舎一同にて上野なる油絵展覧会を見る。目立ちたるは海洋島の海戦(亀井至一)、黒田清輝氏の美人(西洋人)、洋人の筆なる裸体美人は殊に目立ちたり。

 

明治二十八年

十一月一日

 午前多田、葛西、生田三氏と上野に油画展覧会を見る。油画も年々面白きもの少くなる心地するは余等の目の高尚になりたるにや。又画家の少にや、兎も角も立派なりと思ふを見ず。山村芳蒅の浦島太郎は辛苦惨憺の痕あるも寧ろ平凡にして堂に入らず、其他とても之と思ふはなし。

十一月三日

 午後多田氏と日本美術協会の秋季展覧会を見る。流石に油画よりも其程度の高きは言うも更なり。傑作も多く見受けたり。最も余が賞したるは寛敏の鷲なりき。

 

明治三十一年

十月九日

 午前九時より雨を冒して上野に白馬会の油絵を見る。久しく評判なりし黒田氏の小督も出でたるも、思ひし程の出来ならず、誠に何とも謂へぬ悪作なり。其他には眼に就きしは久米氏の暮景及洋人某の小児を抱ける婦人の図など麗し。

十月十五日

 (小室氏と)共に初音町の美術院に本日開会せられたる絵画共進会を見る。広業の春愁半古の比礼婦留山年方の子守観山の釈迦の火葬の如き画などは傑作なるべし。

十月十六日

家兄上京

 午前八時より安中氏を訪ふて昨日約束せし船遊を辞し、三松氏と三人にて乙部氏を見舞ひ、午後一時頃に丸山館に至りて家兄に会し、共に上野に美術展覧会及動物園を見、谷中初音町に美術共進会を見る。

 

 上野にて四十一銀行員にして、以前余が栃木小学校にありたる頃、教師なりし中島氏に会、共進会を見終りて団子坂なる余の下宿に来り藪蕎麦を食して、家兄は入谷に中島氏は日本橋に去る。

 

十二月十八日

 午前籠城(注 下宿に籠って勉強)す。午後は上野に散歩して、午前に除幕式ありたる西郷の銅像(注;木造原型は光雲作)を見物し、病院に乙部を見舞ひ、丸山館に至りて饅頭を貰ひ帰る。

 

明治三十二年

三月十二日

 午後美術院に河村清雄の油絵展を見る。

三月十六日

 午後二時より葛西と上野に雅邦の展覧会を観、池之端にて玉を突き五時に帰る。