当時の高等中学校の入学式は9月。
「晃南日記」のスタートは明治26年1月1日から。
5年生最終講義日(明治29年6月12日)に「入試合格した状況」を書いている。
明治二十九年
六月十二日
今日は余が五年間の生活をなせし旧高等中学、今の高等学校の最終日なり。
昔を憶へば昨夜見し夢の如し。余が此の高等中学に入りし時は未だ十八にして、体格は当時非常に悪しかりしも、其勇気に至りては今に至りて自ら奮然たらしむるものありき。
其前年父を失ひて自ら大に奮ひ、其刻苦果して如何なりしぞ。
代地の保証人(注;間中道一)の楼上に呻吟しても 常に天下の秀才を以て自ら任じたりき。
其高等中学の入学試業を受くるや、同受験者千四百余と号す。当時余は自ら此の大競争に必勝せむと期せり。試業終るや合格せしもの僅に七十余名、余が当時益々「天下の秀才」を以て自ら任じたる、故なきに非ざるなり。
而して其席順を問へば即ち七番なり。千四百名中の七番となりたる余の心中果して如何の情かありし。郷家帰りても肩身弘く友人に遇ふても遜色なかりき。蓋し余が得意の時代なりしなり。
高等中学の生活は如何なりしぞ、之を此の晃南日記に問へ。余は今茲に多言するを欲せざるなり。只だ心中欣然たるものは体格の発育のみ。
今日は即ち余が五年の間を経過せし、最も太平無事に経過せし受教の最終日なり。
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高校3年までの科目は一般教養に当たるもので、教科書を暗記させる所謂“詰め込み教育”。
高校4,5年になると専門科目中心となり、興味のもてる勉強が出来た。物理と化学の実験、測量、製図などに精を出す。
しかしながら、この時代は期末試験に及第するためには大変な努力が必要だった、日記の記述から推測すると、おそるべき競争試験で、何人かは必ず落第させる方針。
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明治二十六年(注;この年の1月1日より「晃南日記」を書き始める。浪平19歳。)
一月十二日
本日より授業を始む。先学期試験点掲示せらる。余は二十二番なり。午後石川、矢野、大友氏と神田に至る。
五月二十五日
学科試験掲示
兄上より来状し学資を給せらる。学年試験は来月十七日よりと掲示せらる。又成績は暑暇前に掲示せらるるの風評あり。
(注;6月17日以降日記に、学年試験の科目と試験問題全文が記載されているが省略。試験時間は原則2時間。
六月十七日 化学 国文
六月十九日 政治地理 代数(出題 英文) 画學
六月二十日 幾何(英文・3時間) 漢文
六月二十一日 英文訳読(不許字書) 支那史
六月二十二日 和文英訳 日本歴史
七月八日
昇 級(感慨)
乙部融、岡戸論介二氏より来翰、取るより早く試験の成績如何にと気づかひつつ披き見れば、昇級の二文字目に入りたり。
先づ安心と思ひしに、二の組(注;当時のクラス分けは一の組は法学・政治学・文学、二の組は工学・理学・農学・薬学、三の組は医学であった)の二十六番とあるを見れば何となく不平の心なきを得ず。嗚呼此の劣成績となるも自ら期する所なり。
区々たる席順は余の争う所に非ずと謂はば、人は之を怠慢書生の逃口上となすならん。
然れども余の体格は不幸にして此の逃口上然たる言語を発せざるを得ざるに至らしめたり。然りと雖も余は自ら深く信ずる所あり。
決して他人に一歩も譲らざるを知れり。余の天性は決して愚鈍に非ざるを知るなり。故に勝を永遠に期して、区々たる席順は平然として返り見ざるなり。
去れど人あり強ひて余に席順の劣を諌めば、余は之が疑を晴らさん為め一時学を勉めて以て席順の首を占めんとす。