6、第一高等学校五年

九月十五日

今日時間割出づ。

 7-8 8-9 9-10 10-11 11-12 1-2 2-3 3-4

月    製図   々々   々々   無機化学  実験科学 々々  々々

火    物理   力学   数学   無機化学  製図   々々  々々

水    倫理        体操   数学    物理

木    物理  有機化学  製図   々々    数学   体操

金    測量   数学   力学   体操    有機化学 物理

土 測量 々々   々々   々々   々々    々々   々々  々々

製図は矢張り小島先生にて、三時間はデスクリプ・チーブ・ゲオメトリーにして其他は器械図なり。有機化学は久原博士にして、無機化学は織田先生の先学期の続き、物理も先学期の続き、即ち蒸気機械よりにて山口先生なり。数学も先学期の続きにて即ち解析幾何の二次式より飯島先生の教授なり。測量は原田龍太先生にして金曜日は講義、土曜日は実習なり。当分の内は金、土曜ともに講義なり。倫理は例によりて宇田先生、体操も田崎教員なり。

九月三十日

今日は化学の実験あり、問題は水素の製法なり。余と井上氏と一組にて成績は頗る好かりき。高橋、福井二氏は未だ発生器より空気の去らざる内に、発生器口に点火せしを以て大破裂を行う。

十月二日

今日は物理の実験あり、問題は望遠鏡の倍率の測定にして成績は充分ならず。元来光線は未だ充分なる講義を聴かざれば又止むを得ざるなり。教師に問ひしに教師も充分に為すことを得ず、水野、山口二教師にて頻りに論議す。遂に其要領を得ず。

十月七日

化学の実験は酸素の実験なり。今日は成績不十分なり。何となれば之に用ふる二酸化マンガンは其水分を充分に去るべきに、此の水分を去ること不十分なりしかば、発生器を熱したるときに発生器の口頚部に水分を生じ、底部に流下して器を破損するの恐れあり。依て余等も充分に其結果を見る能はざりしが、何回も生じたる水分を拭ふて漸く製するを得たり。此の内にて燐、硫黄、木炭、鉄など燃す。

十月九日

物理の実験を行ふ。問題は捩れの振動によりて銅線の剛性率を測定することなり。余と多田氏と二人にて五時頃まで費して漸く計算したり。其結果は1.0749244853×1010となりぬ。大差なきが如し。

十月十日

 数学の問題を当てられ大に窮す。放課後図書館に至りて数学の筆記を為す。蓋し捕盗製縄の類なり。

十月十四日

 化学の実験は塩素の製法なり。即ちMnO24HClMnCl2Cl22H2Oの法にて製して之を瓶中に集むるなり。一室の内にて十七八の発生ありて塩素を発生し、加ふるに未熟なる受験者のみなれば、塩素は溢れ出して室内に充満して一種の臭気を放ち、喉を刺戟して咳の声四方に起る。余も大に喉を傷む。

十月十六日

 物理の実験は化学用の天秤を用ひ、振動の法によりて物質量を測定することなり。充分に終らずして帰る。尤も残りたるは数学的計算のみなり。

十月十九日

 測量は講義一時間にて止み其後ちペーシングの測定を行ふ。十時終る。夫れより製図の科外をなす。

十月二十一日

 化学の実験はBrIの製法及NOの製造なり。皆な一通りの結果を得たり。

十一月四日

 化学の実験はアンモニアの製法及其実験なり。

十一月十三日

 物理の実験は弾性率の測定なり。

十一月十四日

 夜山田、村田二氏と図書館に至りて数学の問題を遣りしに、一題も完全に出来ずして帰りしに、誰も同じ様にて皆々ヤケを起して破裂して放歌高吟となり、井上氏の如きはベースボール・バットにて入口の戸を打って怒鳴りしかば、近所にては酔ひ帰りならむと思ひ入口に来りて窃かに見るも多し。(後略)

十一月十八日

 化学の実験は二酸化炭素なり。

十一月二十日

 物理の実験は顕微鏡の倍率測定なりしも、何も見ることを得ずして実験も出来ざれば不得止放棄して帰る。

十一月二十六日

 エキセレトリック車輪の製図なる。

十一月二十七日

 物理の実験は鏡を用ひ、反射によりて物体の弾性を測定するなり。

十二月四日

 物理の実験は蒸留水の表面張力測定なり。

十二月九日

 化学の実験は酸類及塩類の検定法なり。

十二月十一日

 物理の実験は光度の比較なり。

十二月十八日

 本日より第一学期試業を始め、先ず力学の試験あり。問題は六ケ敷にあらねど一題も満足に出来ず、平生の勉強不足の為ならむ。去りながら余のみならず皆なの人も同じことなれば心配する程のこともなし。

十二月十九日

 化学の試験あり、先ず一通りの出来なり。

十二月二十日

 物理の問題六個ありて不完全ながらも四題を遣りて帰りしに、他の人は余よりも不出来なりと思ひしに、再考すれば二題は運算を違へたり。去れば一般の人と同じ位の出来なり。図書館に至る。

      十二月二十一日

 測量の試業あり。六ケ敷ことにあらず。図書館に至る。

      十二月二十三日

 数学(コニックス及微分)の試業あり。出来は不出来と謂ふの外なし。今度は確に予習の足らざるの然らしむる所なれば是非なし。我室員には余り勉強家ならぬ人多きに、其内にて余が第一の懶けものなりしは後悔千万なり。

 余は今回の試業失敗せしより、下宿して勉強して見むとの観念益々固く全く此の事に決心したり。

 

明治二十九年

一月十五日

 物理の実験は寒暖計の氷点と沸騰点との測定及寒暖計の比較なり。

一月十八日

 今日測量なり。先学期の末に分館を測量せしが結果宜しからず。本日九時より再び測量す。

一月二十日

 化学の実験は酸類の分析なり。余は分析の結果としてHclHIを報告せしに正当なりき。

一月二十二日

 物理の実験はコイルの電流の抵抗を測定するなり。

一月二十五日

 午前は測量製図なりしが前回の測量不精密なる為め製図するを得ず。為すこともなく消費す。

一月二十七日

 化学の実験は分析なり、結果はH2SO4Hcl及ハイドロ、サイアニック、アシッドを得たり。

一月二十九日

 物理の実験は鉄棒及瑠璃管の音の波の長さを測りて其剛性率を測定するなり。測量の再測を行ふ。

二月十日

 本日より化学実験は金属の分析なり。

二月十二日

 数学の問題にて飯島先生より大にヘコマサル。平日の然らしむる所とは謂ふ、残念の至りに堪へず感骨に徹す。

 物理の実験は野口氏と鉄のマグネッカリを実験す。面倒にて六時頃に至る。

二月十九日

 物理の実験は中川氏と共に「冷却法によりて液体の比熱の測定」をなす。

二月二十六日

 物理の実験は中川氏と「地球のマグネットの場の水平の強さの測定」なり。五時頃終りて帰る。

三月四日

 物理の実験は野口氏と「オームの定律検定」なり。

三月七日

測量は午前水平器のアッジャストメントなり。

三月十一日

物理の実験は興津氏と「示差ガルバノメートン」を用ひて抵抗を測る。

午前の倫理の次の時間にて、前回測量して失敗したる本校と工科大学の時計台の距離を測る。

三月十二日

夜独り小梅月に一酌して興津氏を訪ひ、種々の談話をなす。余が近来解し得ずして葛西氏に問ひ、山田氏と談じて解せざりし光の速度を実験するフーコーの方法など論じたるも、遂に要領を得ずして十一時頃に帰る。

三月二十三日

 何となくボンヤリとして居りしが、明日の試験を今更の様に忙しく終日図書館に入りて勉強す。

三月二十四日

先頭第一に力学の試験なり。下宿せし頃は力学を勉強して問題も多く遣りたれば、得意となりて所謂試験勉強をなさず出場せしに、果せるかな問題は立派に遣りてのけたり。室に帰りて種々話せしに不注意の過ちを多くなしたり。第一番の蚤と針との問題は出来ざる人多きに、余は出来たれば大喜び。此の問題元来六ケ敷きに非ざれば功名にはならず。

三月二十五日

物理の試験あり、出来は宜しからず。夜葛西、多田等と図書館に行く。岡田鞍之丞氏来りて明日鵠沼に行くとて告別し、余に雑誌Review of Reviews中に在りしエヂソン氏伝を贈りて帰る。

三月二十六日

化学の試験あり、(有機)大不出来。

三月二十七日

大難物の数学の試験なり。問題は三題ありて二題は殆むど完全なり。一題は不注意より最大の答を求むるに最小の答を求むる方法をなしたるも、此の問題は何れにしても其方法を同じく、且つ余は他人が忘れたる解積幾何を用ひたれば、答を異なりたるも自分は何となく心地よし。

三月二十八日

測量の試験は九時半頃終る。直に製図室に至りて製図す。此の製図は元来本学期に終る可きには少しく難物なりしを、先生は三十日まで延期して以て本学期中に出さしめしなり。去れば此の心地好き季節に、然かも試験が終りしに製図室に籠城とはナサケなし。

四月七日

午前は家にありて未知放射線に就ての記事を書して村井氏に送る。

四月十三日

本日より課業あり。第一に製図なりしも種々用意の為め休業、有機化学の一時間ありしより科学実験は都合により本日休業。

思ひ起せば今年の一月には余は非常なる英断(余に取りて)を以て下宿したり。其頃の勇気は如何に猛烈なりしか、其元気の鋭かりしか、而して今回の成績は如何に。之等の疑問に対しては余は正に愧死せむとす。嗚呼吾れ男子にてありながらと嘆ぜざるを得ず。(席順は下より六番)

四月十五日

物理の実験は興津氏と「エレキ、シエミ等量」の測定なり。

四月二十二日

物理の実験は宮口氏と「電池の電動力の測定及オーム氏定則の証明」を為す。共に好成績を得たり。

四月二十九日

物理の実験は興津氏と「マグネットの温度率測定」なり。

五月四日

化学の実験は定性分析なり。第一の物質中には銀と水銀とを発見し、第二のには銀と銅とを発見せり。

五月六日

物理の実験を休みて本校周囲の高低測量を為す。(福島、永井、福井、須藤四氏と)一時頃より六時頃までに根津神社の前まで測量して帰る。

五月十三日

物理の実験は藤本氏と鏡面の屈曲半径とレンズの屈折率測定を為す。

五月十四日

午後より高低測量を為す。(本校周囲)過日根津神社前まで進みしに不安心なれば今日は又始より行ふ。人数は六人にして大いに熟練せしかば進行早く五時半頃に終る。計算せしに誤差は五寸五分なりき。

五月二十日

物理の実験は興津氏と電池の抵抗を測定せり。

五月二十五日

化学の実験は分析(定性)なり。余はNaCaKを得たり。

五月二十七日

物理の実験はWheatston bridgeを用いて物体の抵抗を測定したり。

五月三十日

測量は実地演習として飛鳥山に至り、エンバンクメントをなすこととなる。朝七時頃より遠藤、山田二氏と出発して興津氏を誘ひて行く。途に野口氏に遇う。九時半より始まる。別に六ケ敷事なきもなれぬ事とて失敗せしものも多し。十二時頃終りぬ。

五月三十一日

日曜なるも試験前の事とて神田明神の境内測量をなす。午前七時に同所に至る。吉沢氏ありて他は未だ来らず。先ず共に二人にて各ステーションの角を測る。程なくして他の諸氏来る。余と吉沢とはトランシットを扱ひ、他はオプセットを取る。午前十一時までに事務大に進む。

六月一日

化学の実験あり、遂に出来ず。(Fe属の分析)午後四時頃より山田と物理室の暗室にて写真の現像す。薬品不良の為め仕損じたり。

六月三日

物理の実験は「天秤を用ひて銅板の密度の測定」なり。

六月六日

隅田川にてサウンヂングの実習を為す。余等は艇庫に至りてボートを漕ぎて行く。やがて我二番室員にてボートに乗り、水流計のコンスタントを定むることとなり漕ぎ出す。発議するものありて船を千住の大橋まで漕ぎ菓子を買ひ食ひつつ帰りしに、鉄橋の辺にて水流計を落す。依て浅田氏を上陸せしめて其旨を報じ、余等は残りて之を求む。井上、井原、山田等大に尽力せしも甲斐なし。其内原先生も伝馬を持ち来り、野口、高橋の水練家来りしも遂に得ずして帰る。余はボートに乗りて帰り、竹屋の渡しにて上陸して網船を求めつつ厩橋に至りて之を得たり。

六月七日

余と遠藤氏と早朝四時半より厩橋に至り、網船に乗りて千住の鉄橋の下に至りて水流計を求む。測量部の福島氏も来りて共に求む。正午頃に至りても得ず。多田氏来る。遂に潜水器を借ることとせしも偶然にも水流計は網に入りたり。一同大に喜び帰途に就く。

向島にて網を投ぜしめて魚数尾を得たり。これより鳥飯を食ふて帰途に就き、寄宿の賄に料理せしめて食ふ。

六月十二日

今日は余が五年間の生活をなせし旧高等中学、今の高等学校の最終日なり。

(中略);(注;高等中学校一年入学と同じ)

高等中学の生活は如何なりしぞ、之を此の晃南日記に問へ。余は今茲に多言するを欲せざるなり。只だ心中欣然たるものは体格の発育のみ。

今日は即ち余が五年の間を経過せし、最も太平無事に経過せし受教の最終日なり。

六月十六日

午後は吉沢氏を訪ふて用器画を研究す。夜食後又氏を訪ふて同画を全く研究し終る。

六月十七日

晴れの戦争とはなりぬ。敵の先陣は名にし負ふ力学なり、其武者振りの勇しさ。(注 試験問題全文の記載あるも省略)

物理(出題英文 二時間半)

日頃の強敵の先陣なれば生徒の討死も仲々多かりき。余も今日こそ得意なれ、功名せむと奮戦せしが、五十点の処より撃ち取れず残念遣るせなし。去れども余などは未だ功名せし分なるべし。

明日は製図の試験なれども其翌日は化学と云ふ強敵あれば、製図は見ずして化学のみを遣る。

六月十八日

用器画(出題英文 四時間)

差して六ケ敷きことならねば仕損じもなかりしが、時間の不足の為め立派には出来ず。これは余のみにあらず。大方は其感なりしと。

六月十九日

今日は最も恐るる化学(出題 英文)なり。去れば昨夜は二時に寝て今朝は四時に起きたり。我室員皆な此の如くして村田などは殆ど徹夜せり。

これも上出来とは行かず人並みの出来ならむ乎、(後略)

六月二十日

測量の試験あり、固より易きものなれば不出来の筈もなし。

六月二十一日

明日と明後日は物理と数学との大敵なれど、家兄が第一列車にて上京するとの事なれば、兎も角もと筆記帳を手にしつつ停車場に至りしも、兄上にはあらで母上の上京なり。驚き且つ喜びて共に間中氏を訪ふ。余も多忙なるままに昼食を饗せられ直に母上に別る。元より不本意の至りなり。母上は明日帰郷すとの事なり。

六月二十二日

物理(二時間半)

これも一通りの出来なり。

六月二十三日

数学(出題英文 二時間半)

先ず無事の出来と謂はざるを得ず。本日にて試業は了結せり。果して無事なりや否やは期す可からざるも余は信ずる処あるなり。

学年試業はこれにて終りしも製図の未完成あり、測量の残務ありて帰郷することも叶はず、大津の水泳に行くことも出来ず、これより数日は夫れ職工的生活乎。

六月二十五日

昨日相約して今日は神田明神の測量に行かむと謂ふものありたれば、八時より余は独り至りしに誰も来らず空しく帰り、午後は福島氏と寄宿にてペン・トポグラヒーを画く。

六月二十六日

午前は神田明神を測量す。三時頃より測量室に来りて紙を張る。

六月二十八日

製図の期限も今日限りなれども、製図室は開かざれば寄宿にて製図す。余は字のみなれば早く終り、午後より福島の分を画き遣る。山田、葛西等も未だ終らず大に苦しむ。

六月二十九日

測量の製図せしも欠点あれば取調べの為め菊池と二人にて神田明神に至る。帰りて井原、山田などの器械図を手伝ふ。

六月三十日

測量の製図を為す。

七月一日

午後より神田明神を測量す。酷暑堪へ難し。

七月二日

測量の製図す。

七月三日

測量の製図す。午後藤本氏と雨を冒して神田明神に至り測量の遣補をなす。

七月四日

測量の製図す。

七月五日

今日は教員会議ある日にして試験の及落を決する日なれば、昨夜より待遠にて能くも眠れず。

朝は六時より起きて製図す。平日は九時頃まで寝て朝食をぬきにするが常なり。十一時頃室に帰りて又製図室に至りしに、入口に福島、遠藤ありて談りて曰く「形勢惨憺たり」

蓋し教員会議の形勢なり。其語簡にして意味の非常なるものを含むなり。余も之を聴きて何となく心地悪しきも、兎も角も昼食せむと二氏を勧めたるも、二氏共に憂色深くして食事を欲せずと謂ふ。依て余は独り昼食して南寮に帰り昼寝せしに、吉沢氏来りて遠藤を尋ぬ。何用ありやと問へば、遠藤は今落第者の氏名を聴き得たりとの事なればそれを知りたきなりと。

 

依て余も急に夫れを知らむと欲して共に西寮に至りしに、舎監室に於て大野新一に会し余及室員等の無事なることを知りたり。二部の失敗者は中川、杉村、池田、江口、高橋、久の六氏なりと。測量室に至りしに未だ知らざるもの多く各々憂色あり。

此の日測量製図終る。

七月六日

朝早く起きて掲示せられたる成績を見る。学年試験は可なりの出来なりしも、学期悪かりければ席順三十二番なるも是非なし。工科卒業生は五十四人なり。

七月七日

卒 業 式

午前九時より倫理講堂に於て卒業証書授与式を挙行す。校長の演説、証書授与、牧野次官の演説、卒業生総代山川弘毅氏の答辞等ありて散会す。茶菓の饗応あり。午後校庭に於て一同撮影す。

是れ余が五年間の生活を終へて送り出さる卒業式の略記なり。如何に面白味無く此の楽園を放逐せらるるなるや。思へば名残り尽きせぬ心地するなり。此の日にあたりて余は過去五年の経歴を列挙せむ乎、これ余の欲する所に非ず。何となれば五年間は愉快の歴史なるも、而も平々凡々の経歴なればなり。何故に平凡なりしか、試にこれを此の晃南日記に問へ。

七月九日

朝食を終りて郵便局に至り、小包郵便にて衣類を大津の水泳部に送り、下駄を買い理髪して帰らむとせしに吉沢氏に会す。氏の言ふ所によれば今日製図の全プレートを返すとのことなれば、夫れ請取らむと学校に至りて見しに製図室に陳列しありたり。其内より自分のを選みて帰らむとせしに、小島先生に会し四方山の話をなして帰る。

 

 

 高等学校卒業時の集合記念写真の名前一覧(教授と卒業生)である。

 

 身元引き受け保証人の倫理教授宇田先生心友の葛西精一、のち浪平の奥さんになる也笑の兄岡田文夫の名前あり。