8、落第(晃南生死)

 

 大学2年次への進学に落第の判定が下されたことにまさかと驚きつつ、判定方法には大きな疑問を抱く。工科大学の試験方法は、学術を究めるよりは、社会に出て競争に勝てるように世間的な要領を身に附けさせようとするものだ、もし今後日本の工業を担うべき技士に充分な知識と何よりも信義とがなければ、社会にどのような害をもたらすことになるのか、という問題意識は鋭いものがあり。尤もこの時期の小平翁は学者の道に進む考えを持っていたようです。

 

七月七日

記憶すべき日

朝本郷の通りに洋傘を贖ひ、夫れより南沢氏を訪ふて雑談して十一時に帰りて、午後は三時まで午睡して起き出で登学して成績を見る。

福島などありて談る所を聴くに、今年は試験場にて不正の行為ありしもの機械に二人、電気に二人発見せられたりと。多分退学ならむなど語る。此の所に内藤遊氏来りて井原と南沢は其厄に罹れりと語る。彼これする内に小使は成績表を掲示せり。如何なる成績なるか、真中より下にありては不面目なりと思ひしに余の名の上には△印あり。此の印は何ならむと但し書きを見れば不合格とありぬ。嗚呼余の失望、落胆果して如何、今の今までヨモ落第の宣告を受けむとは思はざりしものを。勿論余の成績は不良なりしならむ、然れどもこれを或人のに比する時は決して憂ふるに足らずと信じたるものを。今日この厄に罹らむとは余の夢想し能はざりし処なり。

 

他人の成績などは見る勇気なく逃げ帰る。帰りても気分は落ち付かず再び登学して事務室に至り、余が不合格なりし科目を問ひしに数学三十余点なりしと云ふ。他に悪しきものなきやと問ひしに他に無しと云ふ。実に数学は悪しかりしと知りしも、他の条件より今日の不運は来さざるべしと思ひしなり。

 

今は如何ともすべからず、早く東京を去りて決然たる覚悟を為さざるべからずと、先ず寄宿舎に内藤を訪ふて故岡田君の墓碑(注 4月京都にて自死 現地下宿の後始末、旧友による追悼会など親身の世話をした)の件など一切依頼して来らむと行きしに留守なり。依て吉沢を訪はむとせしに、

 

途に内藤に会し共に寄宿舎に帰りて相談したり。内藤は平均八十五点にて、史学科の首席を占めたれば余に奢らむと謂ふ。共に豊国に至りて飲む。落第生と特待生と会飲すとは又妙ならずや。山内確も在りて共に飲む。九時頃に内藤と共に丸山館に来りしに余の室に燈点しあり。如何なることならむと入りて見れば吉沢、谷、高野、古山などの諸氏は、頭を集めて何事か語りつつ余の入るを見て気の毒らしき顔して一言も発せず。

 

余は諸氏の意を察したれば深く其来意を謝したり。諸氏は又余に注意して、これより勉強するも好けれども無謀の勉強を為す勿れと。余は諸氏に謝す、余愚なりと雖ども一失敗の為めに愴恍心を失するが如きことあらざるべし。余は身体の許す限りに於て働くものなり。本年の失敗は身体の許す限りに於て働きて猶ほ足らざりしものにして、来年も身体の許す限りを尽して又足らざれば再び不合格の悲運に会するも余は恨まざるなり。放校せらるるも悲しまざるなり。特待生となるも辞せざるなり。只余は余の能ふ所を行ふのみ、願くは安堵せよと。

 

諸氏大に喜び相談笑して旅行を説き、高野は南北寮廃止の反対運動の状況を説き、内藤は一杯機嫌にて審美学上より美人の本相を説き、美人とその体格の関係を論じ、蕩々数千言に至る。十時半に至りて古山、高野、吉沢三氏帰り、谷と内藤とは雨降りたれば余の所に一泊することとなる。

 

十一時頃寝に就く。谷、内藤共に鼾声雷の如きも余は眠るを得ず。つとめて眠らむとすれば眼は益々冴えて万感交々来り襲ひ、先に友人の前にて平気の顔をせしも似ず、如何にしても眠られずして大いに苦しみ、十二時を聴き一時、二時、三時を聴き、鳥のなくを聴きても眠られず。

 

七月八日

五時半に内藤氏起きたれば余も起き出づ。谷も起きて朝食して二人共に去る。一人取り残されて又空想に攻められたれば古山を訪ひしに不在なりければ、帰りて午睡せむとせしが又眠られず。

午食して又眠らむと力めしも眠られず居りしに、高野来訪し直に帰る。又眠らむとせしに葛西来訪す。葛西氏は鹿島組主と共に信越方面を旅行して昨日帰京し、今朝登学して余の敗報を知り驚き来りしなりと。暫く雑談して帰る。

夜食後に寄宿に至りて内藤氏に故岡田君への寄附金などのことを依頼せむとて尋ねしに、留守なりければ同室の八田君に金子を渡して帰る。夫れより新聞縦覧所に至りて八時頃に帰りしに、先に山朔氏来訪して明日北海道に出発すべければと謂ひしとか。氏は昨日も福島氏と共に来訪せしなりと。

 

七月九日

今は友人に遇ふも面白からず、去りとて如何でか郷に帰りて慈母と家兄に面するを得む。余が最も愧づる所は慈母に対してなり。慈母は家に在りて余の成業一年も早からむを望み、余の今に至る成績を常に郷人に誇りしなり。余が今回最も苦痛を感ずるは此の点にあり。余が一年遅れたりとて余に取りては何かあらむ、然れども慈母に取りては一年は十年を価すべきなり。

 

嗚呼郷に帰るを得ず、何処に行かむ。同室は行李を整へて西に東にスケッチブックを携へて其志す所に旅立ちぬ。余は何処に行くべきか、買ひ求めたるスケッチブックも旅行日記帳も用なくなりぬ。嗚呼我れ何処に此の欝を散ぜむかな。

此の贖ひたる日記の裏に

   須磨と明石の景色をかこと買ふた日記に安房の月

微雨濛々たれども晴れむとするの気色あれば、余は房州金谷に行かむと決せり。六時半に丸山館を発す。(後略)

 

こうして三週間、同宿の友人たちと房総の海辺に過ごしたものの、とうとう郷里に帰り現実に立ち向かう日を迎えます。

 

七月二十五日

今日に至りて浪も平かになりたれども海水に入らず、余は慈母の許より帰郷を促されたれば今日帰ることとなす。乙部氏と共に二時発の汽船にて帰途に就く。同宿の菱刈氏も同船す。七時半に着京、此の夜丸山館に泊す。

七月二十六日

午前五時発の列車にて帰郷す。慈母よりは諌められ、兄上帰り玉ひて怒られて余は一言も無し。

 

晃南死

嗚呼晃南生、此の晃南日記の筆者は明治三十年七月二十六日を以て死せり。世は遂に此の一痴漢を見ざるべし。彼は一個の見識を以て世に処したるも、一朝事は心と違ひ不幸蹉跌の悲運に会し、万事皆な非にして、彼の見識たり本領たる点を捨てざるべからざるに至れり。好意を以て彼を待ちし一家すら彼を反目するに至りぬ。彼は木石に非ず、何ぞ一言の弁解なからむや。然りと雖も之を謂ふを欲せざるなり。否彼は其言の寧ろ信ぜられざるを知ればなり。

 

晃南生は永く眠りたり。又何の日か彼が天真爛漫たる行為を見む。何れの年か彼の酒々落々たる言行に接せむ。噫。

 

雲烟過眼録

明治三十年八月起

絹水亭主人

○工科大学の試験

工科大学の試験を論ずるを以て余をヤケなりと謂ふ勿れ。これ余が平性の持論なればなり。学生の徳義なきを憤るを以て余を負け惜しみと謂ふなかれ。これ余が平性の所信なればなり。

 

 工科大学の試験は聊も志あるものの常に思ふる所にして、一の信義なく姦猾を以て其武器となし、ゴマカシを以て其糧食となし、学生の徳義の如きはこれを度外に置き、決して顧ることなきなり。

 

説をなすものあり。工科の学生は他日乱麻の如き社会に入るものなり、決して学者として立つものに非ず。故に其試業に於ても亦社会的なるを要す。而して其社会的試験に敗を取るものは、他日社会に立ちて又敗を取るものなりと、何ぞ其言の妄なるや。

 

社会的とは姦猾なるを意味するなればイザ知らず、工学士をして芸人職工輩となすなればイザ知らず、苟も一個学術の深淵に入らしめ、蘊奥の知識を得せしむるものに向ふて此の言を為す、愚も甚だしと謂ふべし。夫れ工学士なるものは学術に於て精確ならざるべからず、同時に又博識ならざるべからず、就中信義の厚き人ならざるべからず、何れの工業を問はず多数人類の生命安危に最も直接なる関係を有するものにして、技士の無学無智にして且つ信義なきものは最も危険なりと謂ふべし。

 

此の才能の人、此の信義の人を養成すべき工科大学の試験は、果して世人を首肯せしむるを得るや。

 

医科に於て、文科に於て、理科に於て創成的の事業多きに係らず独り工科に於て何ぞ夫れ少きや。他なし、彼等の卒業生に能力なきなり。学識なきなり。彼等は模倣を以て満足するによるなり。模倣を以て満足する限りは日本の工業豈論ずるに足らむや。此の如きはこれを遠く工科大学の試験に負ふ所ありと謂ふべきなり。

 

○来学期九月より余が最も深く研究すべきものは

 

()電気試験法(特に海底電信)

()化学上電気の作用(特に各種の電池の構造と鉱金用、金属塩類)

()機械製造法

 

○八月二十日始めてロンドンに於て電車を運転す。(電報)

 

○余が来学年に於て期すべきものは二つある。其二つとは何であるか、試みに此に記して後日の参考とする。

 

先ず第一は学科の成績に於てである。今学期の成績は実に成績としては見苦し。譬へ良心に於ては愧ずる所はなしとするも、自分には少しも痛痒を感じないとするも、去りながら親と兄弟とが不快を感じたは事実である。其不快の原因と謂ふは外ではない。ツマリ比例的の考へからである。隣村の某は此の如くである、然るに余は此の如くであると謂ふのである。彼等は此の如く思ふも無理はない。親兄弟は成績の外には何も知らない。試験の塩梅から平性の勉強の方法などは決して知る道理もなく、従ひて余が平性何をして居るかも知らぬのである。

故にかく思ふも尤もの次第である。して見れば余も一つ親兄弟の側より考へて見なければならない。即ち成績の善悪と云ふことを考へて見なければならない。

此の点より考へれば来学期は是非とも此の方の名誉を恢復せなければならない。此の恢復をなす為めには是非とも今までの方針を変換するの必要がある。即ち学科に熱中して其他を顧みるの遑なしと云ふ塩梅にせねばならぬ。此の如くして望むのは特待生である。これが今回の名誉を恢復する最後の手段である。能く能く考ふるにこれは出来ねばならぬ道理である。何となれば我れには我が為したる学課の中に解らなかったものもなし、これを又復修するのであれば特待生になれぬ道理もない。

 

第二の目的は反対の側、即ち自分の実益より考へたので、世人の口八釜しきものは度外に置き、何とでも謂はせて、余は余なりと云ふ精神を透したいのである。換言すれば我が本領とする所を頑として動かさない方針を取るのである。実にこれは男らしき行為である。郷党は別として、学友に於ては余の行為は必ず賛成して呉れるものが多い。

偖て本領を建て通して何をすると謂ふと、余は其問題を充分に決した。

即ち三個の問題を研究するのである。

()電気試験法

()化学上の電気の作用

()機械製造法、これが余が選んだる問題である。

勿論及第して見苦しからぬ成績をとるのは容易であれば必ず余裕がある。此の余裕にて充分の研究が出来る。此の外にも数学の積分の奥の方を確かに見なければならぬ。これ等を研究すれば余が今度の失敗を充分に償ふことが出来る。

 

此の二つの内で何れを採るべきかと迷ふた。第一の方は仲々六ケ敷ことである。これは近距離で金的を射る如きもので、第二は遠距離で大的を射る様なものである。何れも六ケ敷きも第一は当り悪い点が多い。実益と謂ふ方面より謂へば勿論第二を取らなければならぬ。故に第二を取らむとすれば難を避けて易に着きたる如き観がある。否観があるのみならず自分も実際勇気なき故である。今まで落第して其後成績抜群と謂ふものは稀である。学校の席順は先天的に定まりたるものなりとは一般の評である。これを破りて遣りたきが余の一つの野心である。

兎も角も余は非常の場合に会したるのである。仲々愚図々々として居られない。依て余は決心した。

 

第一、第二を兼ねて成功せしめむと決心した。

 

嗚呼天下の人よ余の愚を笑ふなかれ、余の自惚れを譏るなかれ、天下に自惚れなくむば何事も出来ぬのである。余は自ら信ずる心は決して此の一蹉跌の為めに消磨し尽されざるなり。

 

○余の脳は詩人的なり。多感詩人の脳漿なり。余が暑中休暇中に愛読幾多の美文は決して余が科学に疲れたる為めに読むに非ず、余の心中に於て盛に同情を喚起するものあるによるなり。

・余の脳は科学的なり。

・実用的には縁遠き方なり。

・社交は余の最も拙なる所にして世事は余の暗き処、

・去れば余は官吏となりて高きを望まず、

・所謂実業家となりて大なるを願はず、

・工学者として大事業家たるを望まず、

・只だ学者としての本分を尽し終らむことを願ふなり。

・其他に於ては薪水の費を得る為めに働かむのみ。

何をか学者の本分と云ふ、余はこれを謂はざるべし。

 

只だ電工科は学者の本分を尽す好植民地なりと答へむのみ。

 

○十二月の学期試験は始めの程は破竹の勢にて進みしも、半ばにして数学の失敗は返す返すも残念なり。電磁気学も充分好く遣りたりと思ひしに、後に聴けば余り好からず。これは余のみにあらねば安心なり。

 

明治三十一年

○学 年 試 業

  六月十三日  水力及水力機

    十四日  機械学

    十五日  材料及構造強弱論

    十八日  電気及磁気論

    二十日  電気及磁気測定

    二十二日 応用力学

    二十四日 電信論

○七月六日 午後七時遠藤騰太君より来電す。

 

       「キウダイ七バン、ラク六アリ」