「失業対策としての太平山遊覧道路建設」(長谷川調七元栃木町町長)
錦着山を右手に見ながら永野川を渡ったところ辺りから太平山に向かって「太平山遊覧道路」がスタートする。この道路は昭和6年に町長に当選した長谷川調七の発案で「失業対策」として開発されたものである。
昭和初期の長引く不況に対して、犬養内閣は農村振興土木事業に対して総工費の四分の三程度の国庫補助を行い救済事業する方針が打出され、条件としてこれに従事する者は農民で生活困窮者。
今では当たり前の観光事業。当時は誰も考え及びなかった一大事業を提案。総工費20,800円、就業人員延べ 1100人、道路長さ約4㌔、幅7m。昭和7年末着工して、1年半後の昭和9年3月完成。その時東武鉄道から桜の苗木7000本が寄付され、青年有志により両側に植樹されたという。
長谷川家は皆川城家臣の流れをくみ、江戸時代には栃木宿で年番町名主を務めた当地では名家の一つ。家業は明治の中期から始めたであろう書籍や文具を扱う商人。屋号は「出井」。現在でも「出井書店」として大通りに100年企業として存続している。
長谷川調七は明治11年生まれ。その姉はチカ(知加)と言い明治7年生まれ。このチカが浪平の兄儀平の最初の結婚相手。不幸にして肺病のため明治31年10月31日(戸籍上)強制離婚(当時の医療レベル、家族制度(家の存続)の犠牲者)。翌年の6月病没。
「晃南日記」には兄の披露宴、嫁の病気のこと、離婚が登場している。
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<家兄儀平の結婚披露宴;千秋万歳>
・明治27年4月5日;花笑ひ鳥歌ひ、霞は棚引き実にや長閑き春の季節、さらぬだに嬉しきは家兄の祝儀にぞある。
酒の池、肉の林、山のもの、海のもの、川のもの丘なすばかりなり。来客には間中伯父母、同小雪、供一人、金崎伯父母、同力、大沢貞司、其他の親戚を始め組合、近隣等百五六十名なりき。夜七時頃花嫁御寮は静々と入り来りぬ。何事も古例前格のある事なれば、長々しき儀式を為すもひま取りて、十二時過ぐる頃漸く夜食となる。全く終りて栃木町の来客の帰りたるは午前三時なりき。目出度しめでたし。(調七も長谷川家戸主と出席していた)
<兄嫁の病気>
・明治28年7月20日;兄嫁の病気の殊に恐るべき、況してや妹も亦同じ病気なりとのこと、天道は果して是乎非乎。
<兄嫁との離縁>
・明治31年の暮れの「歳暮感」;余一身の外に於て重大なりし出来事は 兄嫁の離縁となりしこと。
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長谷川調七が政治家と活躍時期は兄儀平が第一銀行の支店長と重なり、又 浪平も昭和初期の不況乗り切りに兄儀平を通して
長谷川長七とお互い交流していたと思う。浪平はこの「遊覧道路」が出来ると合戦場から太平山参拝するには近道となり、昭和2年に亡くなった母チヨの供養としてアドバイスした可能性がある。
長谷川調七 公職履歴 |
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公職 |
期間 |
備考 |
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栃木町町長 |
第4代目 |
昭和6年10月~昭和10年6月 |
初代町長は根岸政徳氏(明治24年~) |
栃木市議会議長 |
初代 |
昭和12年7月~昭和15年2月 |
ー |
栃木市市長 |
第3代目 |
昭和15年3月~昭和16年4月 |
栃木市の市政は昭和12年~、初代市長は榊原経武氏(昭和12/7~14/6) |
出所;「栃木市の歴史」日向野徳久著(昭和41年11月10日発行) |
以上
知加(チカ)は 離婚後約半年で病没(26歳)。
長谷川総本家の墓地は市内入舟町に個人墓として現在も有り(写真下)。広さも200坪位か?
長谷川調七に嫡子がいなかったため 隣接する親類の印刷屋「弘文堂」が弔っている模様。