愛媛県松山生れ。工科大学鉱山冶金学科卒。初代日本鉱業社長。藤田組小坂鉱山入社。生鉱吹き銅製錬法を開発し、経営危機の小坂鉱山の再建に大きく貢献。
明治40(1907)年、久原房之助の招聘を受け日立鉱山に移り、久原の意を受けて国内第一級の近代的な事業の建設の指揮をとり、日立鉱山は竹内によって発展の基礎が築く。
浪平とは高等学校時代の学友。浪平と同じ明治7年生まれ。浪平は電気工学科二年進級する時 落第しているので一年早い明治32年小坂鉱山入社。彼の誘いで浪平は同じ小坂鉱山入社したと思われる。
浪平が日立鉱山に転職したのも竹内の誘いと思われる。明治43年 房之助の気の進まない”工作課独立”を浪平を陰から応援した。彼のバックアップが無ければ日立製作所の独立は有り得ない。竹内は鉱山としては必要性が薄い浪平の「自前技術による電気機器開発」を支持し、日立製作所創業に大きく貢献す。
久原が一番信頼を寄せていた部下であったが、竹内は、その人生を回顧して「予の事業は久原の事業にして、久原の事業は予によって仕遂げられたと」と述べている通り、久原とはそりが合わなかった。昭和20年没。