7、栃木へ通学

 

 郷里合戦場の小学校(注;写真は昭和10年に取り毀時の淑愼学舎)はその設備も教師も到底父の満足を得る能はざりした当然なり。これに反して栃木の小学校は田舎には稀に見るべき小学校にして、校長先生は高等師範の卒業生にして月給百何十円なりとの評判なり。

 

 去れば明治十八年六月(十二歳)淑愼学舎(合戦場の小学校)を退校して、名義上父の生家なる栃木町城内の大澤家に寄宿したる形にて栃木小学校に入校するに至るなりたる。

 

  この時の学校校舎は旧県庁の建家なり。県庁は栃木町にありたるが三島県令時代に宇都宮に移転したる為、共庁舎も師範学校の校舎も皆空家となり之を利用したるなり。県庁舎は石造りの平屋にて周囲に濠をめぐらし恰も昔の城郭の如き構想なり。構には官舎あり北西の隅には大神宮の社殿の跡など残り居たり。この立派なる学校に入学するの光栄を得て毎日通学を楽しみ居たり。この期間特に頭に残り居る印象少なく時々太平山へ遠足したる事位なり。

 

 明治二十年頃学制改革ありて従来の初等科、中等科、高等科を廃して尋常科、高等科の二階級となり、余は最上級の高等科に編入せらる。

 

  漢学全盛時代なれば之を強行せられ、学校以外に個人教授を受けたり。合戦場の小学校に居る頃は隣の高砂屋の老人(余の曾祖母の妹の夫)鼎氏より四書の素読を教わり、今は何も残らぬ当時の眠かりし事のみ記憶に残っている。

 

 栃木学校のにてはこの学校の漢学の先生たる平山先生の下宿へ通う。小学校の放課後に旭町の壽司伝の隣の何とか云う下宿屋まで通うなどは相当苦労なりし。

 

 この先生には史記の素読などなりき。その後村井弦斎が栃木に滞留して居られ、大澤の座敷に居られた縁故にて文章軌範の素読を習いたり。先生はその後合戦場の生家に暫く居住せられ毎日先生の教授を受けいたり。

 

  小学校の高等科は県庁跡より師範学校跡に移転す。この師範学校校舎は久しく空き部家となり居り、時計台ありて余等はこの時計台にのぼりて時計をいたずしたる事を記憶す。二十一年四月にこの学校を卒業す。

 

 栃木協立英学校が明治二十年に開校せられ余もこれに入学す。授業は小学校の始業前なれば六時半前頃に始まるなり。これに通学する事は中々容易ならず。冬季には真暗の頃に宅を出て淋しき首斬場を右に視てビクビクしながら通学し、栃木の町に入りてホットする位なり。時には早出の荷車と一緒になり大いに安心したる事もありたる。首斬場付近にて雉か何かが飛び出して胆をつぶしたる事は忘れがたき想い出なりき。

 

  この時代の友人にて最後まで交際を続けたるは根岸政一岡田嘉右衛門なり。根岸君は明治三十三年に東大の機械を卒業し、東京高等工業学校即ち蔵前の高工の先生となり、宮田製作所(自転車製造)を指導しいたり。宮田の発展は同君に負う処大なり。昭和十年一月二十一日死去す。工学博士なり。

 

  岡田君は栃木嘉右衛門町の素封家にして、昔は巴波川を利用したる川船の回漕業者にして、後には鍋山の石灰業を経営して一時は相当の発展をなしたるが、浮沈多き事業界の例に漏れず大発展もせず大正時代に死去したり。

 

  高等小学校の最期の校長を相澤先生と言ひ、高師の卒業生にして物理学の講義非常に面白く聴きたり、物質不滅論などは子供心に大いなる啓蒙を与えたるなり。余が性質にも拠らむが科学に対する興味はこの時より起こり、この父の感化によりて遂に工業界の人となりたるなり。

 

 相澤先生は晩年平塚の女学校を経営せられ、その子息は共産党として検挙せられたる新聞記事により始めて先生が平塚に在りし事を知り、一度訪問せむかと思いつつ遂に果たさずその内他界せられたるを知りたり。残念なり。

 

 受持ちの先生たりし寺井久吉先生も忘るる事能はざる先生なり。晩年根岸君と二人にて先生を東京に招待せしむかと目論見たる事ありたるも、これも果たさず写真の交換位にて終わり、先生は古希を過ぐる両三年にして死去せられたり。

 

  旧県庁の裏にありたる大神宮の社殿が全く空家となりて存在せり。この建築は相当の大建築にて、棟は木羽葺なるもこれに登れば栃木の町も眼下に見ゆるかと思わるる程なり。

 

 或る日学校の帰途友人数名とここに遊び、好奇心に駆られ遂に靴を脱き靴下丈けにてこの屋根に登りたるに、その棟に達する直前に足許が滑り出し、ズルズルと勢良く落下して将に地上に落下して一命を失うに至るべきやと思いたるに、一段下にありたる庇に激突せるに、腐食しいたる庇に余の足が突き刺さり幸いにして落下を免れたり。この腐食したる庇ならりせば恐らく生死判明せざりならむ。

 

 以上の二件は栃木時代の最も印象深き事件なりき。