母は家付きの娘なり。
嘉永六年に生まれ十八歳にして父を迎え、十九歳には兄を産み、二十三歳にして余が生まれたるなり。
その教育程度など遂ひ何も母より聞きたる事なく不明なり。勿論寺子屋教育を出でざりしなるべし。
体格は小柄なりしも全体に均整のとれた均整のとれたる中肉の健康体にて、克く艱難辛苦に耐え得る素質を有せり。余の健康の宜しきは母の遺伝なるべし。
性質は 所謂男勝りにして非常に強き一面あると同時に涙もろく、弱者に対し同情深きは関東地方特有の任侠の気風を存したるに似たり。
男勝りの勝ち気強き点は、父に死なれ借金と多数の幼児を遺されたる結果として、必要に応じて醸成せられたる第二の天性かも知れず、余は寧ろ母の温和にて忠実なる固有の性質に感化せられた所多きを覚ゆ。
父の死後、暑中休暇にて帰省したる時など、夜静かなる時に 母は一家の窮状を打ちまけ、涙を流して余の奮起を促したるは今も忘れぬ深き印象を脳裏に印せしめたり。
余は母より叱られたる事を記憶せず、常に激励と賞辞とを受け何等の心配もなく無我夢中にて勉学するの幸福境にあり得たるなり。
母は余等を教育するに先ず第一に正直なれと教え、次に努力せよと教えたり。正直と努力とは最も平凡なる事柄にして実行の困難なる事なり。而して母は之れを実践躬行し身を以て範を示したるなり。正直なるものは必ず栄え努力するものは何時か酬ひらる。
母は神信心厚く家庭における先祖の祭、氏神に対する奉仕など真心を籠めて行いたり。郷里に於いては太平山神社を特に信仰して 年々数回登山して参詣したり。昭和三年の春、即ち死する一、二ヶ月前に七十七歳の高齢を以て徒歩にて太平山に参詣したる由なり。同山麓まで約二里、山の高さ約千尺なり。下駄履きにて之れを往復する事は余程の体力を要するなり。
母の最後の病気は腸チフスと診断せられ、この病気無かりせば八十、九十の長寿疑いなき処なるに洵に惜しき事なりき。
母の最も苦境に立ちしは云うまでも無く父の死後に於いてなるべし。僅かに三十八歳の若き後家が七人の子供を擁して借金と戦わざるを得ざる境地は、想像しても仲々容易に非ざりしなるべし。
家柄を誇りとせし母として借金を催促せられ、暮夜質屋の門を潜りたる苦心談は昔の思い出として数回聴かされたる事ありたり。新しき衣裳を買うにも非ず、美食を摂るにも非ず、古服をまとい粗食を摂りて一意専心子女の養育に邁進したる勇気と根気とには、余等としては最大の感謝を捧ぐる次第なり。
以来今日迄五、六十年この如く健康にも恵まれ国家にご奉公し得るは全く母の賜物なり。母の高恩に対して余の盡したる孝養は果たして如何なるなりしか。 (昭和二十年七月 記)