4、琴平山行
安永元年(1772年)、関口一郎左衛門により全国金比羅神社・琴平神社の総本宮である讃岐の金刀比羅宮より神璽を迎え祀る。最盛期は巴波川から江戸への水難守護の神として、往事は雨乞いの神・五穀豊穣の神として地域の人の厚い信仰によって支えられていましたが、既に浪平が参拝した頃は落ちぶれていたようだ。丁度合戦場と葛生の中間 険しい山中にあり。
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七月二十三日 日曜日 晴天
<琴平山行>
朝まだき起き出づれば、朝霞かすかに込めて涼しき風のそよそよと吹く。此に於て常に心に思ひし琴平山に詣でんと出でて行く。
吹上村に至りし頃は諸山霧の細く棚引く様えも謂へず。皆川も過ぎて早や柏倉。暑さはさながら焼くが如く、諸はだ脱ぎて進めば此所琴平山の麓にて、昔時の盛栄に引き換へて哀れ身にしむばかりなり。
汗を拭ひつつ山を登る。鳥居朽ち道荒れ、草のみ莽々と生ひ茂り、石階とても雨に洗はれて崩れんばかり傾きたり。盛者必衰は世の習とは謂へ、昔時隆盛の極に於て誰が今日あるを予期せんや。
山を下れば馬車あり人力車あり、人の思ふ如く美酒もあり美肉もあるものを、今日乗るに興なく食ふに魚なきの感あり。山頂巍乎として天を凌がんとするは額殿なり。彼の銅の賽銭箱、彼の鈴、彼の燈籠は十年前余が家厳に伴はれて来り見し時と異らざるなり。
然れども両側の茶屋は皆取払はれ小さき腰かけ茶屋のみとなり、楽殿手洗場など見るも哀れの有様なり。茶屋に入りて暫し憩ふ。
九時より十二時まで絵など画き茶屋の老婆と語りなどして、十二時より太平山に向ふ。
元の道を少し返りて、皆川村より脇道に入りて野道をたどり、千人塚とて小高き山の細き道を太き息のみつきて行く。流汗粒々として衣服は雨にそぼちたる如く、山の上のみ望みて進み漸く山頂に至れば、平野南に開け茫々として隙無く、春にあらぬ夏霞はをちこちを込め、颯と南風吹きて心神豁如たり。
山を降りて谷道をたどり又山を登り、登れば樹木鬱として涼風送冷冷似秋の感あり。割子を開きて腹ふくらして独り喜ぶとは異な事どもなり。樹影に憩ひて汗押拭ひて太平山に嚮ふ。巨杉老松道を蔽へば暑さも感ぜざるは、太平山に備はる徳とつぶやきて、急ぎ氷店に入りて三杯を傾け、公園地の下にて汗を流し、暑さもかまはず茨など分けて白百合の花手折りて来る。
公園も素通りして新坂を降りてふと前を見れば、何処の書生にやあらん、短き単衣に兵子帯無作法に引き結び落々として歩み行く。余後より近づき見れば同窓の白条帽を打ち冠れり。誰と見れば青井鉞夫氏なり。奇なり奇なりと打驚く。
誰も同じき試験の心配、誰は何の組、誰は何番、吾は何が悪かりし善かりし、彼の科が心配なりし、去れど昇級せしは安心なりき。慾に際限なし、席順まで争はずも好からんなど語れば何時しか栃木旧県庁まで来り、別れて独り家に急ぎ五時着す。