その3「勉学」編

工科大学二年

 大学2年次に至って愈々電気工学の実験、設計、製図に励みます。ダイナモ、発動機などの修繕、実験、測定に明け暮れる。

演説も「蓄電池」「長距離電力輸送」を行うなど、将来の電気機器事業創成への布石が着々と蓄積す。

 

九月十九日

 本日より講義始まれり。実験製図も始まらむとす。

時間表は次の如し。

八~九   九~十半   十半~十二   一~三   三~四

月   製図     々々      電燈     図      々

火   実験     々々     ダイナモ    実験    々々

水   図       々      電燈     図      々

木   実験     々々     ダイナモ    実験    々々

金   実験     々々     電信・話         工業経済

土   図       々      々

十月六日

 九月より実験したる地磁力の水平コンポーネントは本日好結果にて測定を終りたり。其値は0.3944位なりき。吾人の実験としては寧ろ好結果と謂ふべし。これ全く磁針の小なりしこと及垂糸の長きことに起因したるものの如し。又本日よりは実験工場に在る小発電機を修繕して其性質の研究を命ぜらる。

十月七日

 今日此の頃は近年に無き程にも勉強するなり。而して其勉強は元来余自ら好む方法なれども、一種の経験としてなすなり。夜は大抵其日の講義を清書し、余暇あればカップの「ダイナモ・アンド・モートル」を十ページ位づつ読むなり。

 此の如く課業の如くに毎日なすなれば、此の頃は面白くなりて、毎夜勉強するが楽の如き不可思議なり。

 

 登学は大抵八時前にして同級中第一の早出となり、製図も案外に進歩したり。去れども夜は就寝は十一時にして、朝は六時半より七時の間なれば、登学して講義あるときなどは、少しく眠気を催すことなど多きは、一得一失是非もなし。

十月十一日

 実験はダイナモの修繕なり。今日はフィールド・コイルの巻き直しを遣りたるも半分より出来ず。

十月十二日

午後実験工場にて、発動機のフィルド・マグネットのコイルを巻き直し居りしに葛西氏来訪し、又古山氏も今日横須賀より一寸上京したりとて来訪せられ、直ちに帰らる。

十月十三日

 実験工場にて余等の修繕したるダイナモを運転して発電せむとせしに、如何にしても起らず大に閉口す。今日は一日やりしも遂に出来ず終る。

十月二十日

 今日は実験(ダイナモ運転)を為せしに、僅に二十ボルト二アンペーヤーを得たるのみ。毎日々々何遍遣りても旨く行かぬには閉口なり。

十月二十一日

 午前九時より登学して中野先生の講義を聴く。今日はソンプ氏のトランスフォーマー・テストの講義なりしも、先生大にマゴツキ遂に要領を得ず。

 近来の講義は一体に六ケ敷き上に先生も如何にせられしや、誠に曖昧の処多くて帰宿してノートを清書するにも、何時間掛りても明瞭ならざるには閉口々々。

十月二十五日

 実験も毎度旨く行かず、今日は破損したるアンメーター及ガルバノメーターを修繕す。十月二十六日

 先度より実験中のダイナモは、愈々不能力のものと決定して中野先生に其旨を報ぜしに、今度はリング・アーマチュアーなる小ダイナモを与へられ、午後より実験せしに矢張り好結果を得ず。シャントとしてなし、無荷にて短絡して僅に七アンペヤー位にして、電圧は不可測的小なり。

十一月二日

 午前実験は未だ好結果を得ず。講義は休みなり。午後二時まで製図す。

十一月四日

 午前も午後も実験せしも未だ好結果を得ず。

十一月七日

 一日実験す。漸く好結果を得、カラクラリスチック・カーブの一部を画くを得たり。

十一月八日

 製図して大部分の絵具を塗る。如何にも鮮かにして皆な人は錦絵なりなど評す。

十一月九日

 製図す。午後は同級生の演説会ありて、今日は稲田氏の架空線式電鉄の話あり。

十一月十一日

 今日も講義の外は製図す。エヂソン発電機の全図は全く就り次の画紙を張る。

十一月十四日

 製図はダイナモのデテールスなり。

十一月十六日 

 製図す。

午後は同級生の演説会なり。今日は一樋氏の演説あり。

題はSome effects of condenser in alternating current circuitなり。

別に面白からず、只だスタインメッツの抜書きのみ。

十一月十九日

 七時半に登学して九時まで製図し、夫れより実験を為せしも好結果なし。

実験は前回のダイナモのエフィセンシーの測定なり。

十一月二十日

 午前は大に交番電流を研究せしも遂に要領を得ず。

十一月二十二日

 今日は実験は好結果を得ず。蓄電池の放電不足の為めなり。

十一月二十四日

 本日より大学も暖房を始む。実験も好結果ならざるも之にて中止することとなる。午後は同級生の講習会にて、渋沢氏のAccumulaters of tractionあり。

 三時半に終り夫れより四時までローンテニスを遊び、寄宿舎にて夜食して春木町に至り、一ゲーム玉を突き、四時半より京橋の電気学会の演説を聴く。演者は米国の電気学者クロッカー博士にして、何か面白きことあらむと思ひの外何も珍しきことなく、日本には水力電気発達すべしとか、百哩の輸送には四万ヴォルトを要すとか、工場用にはベルト式よりも電力を用ゆる方可なりとか、別に新しき説もなし。二十分にて終りぬ。

十一月三十日

 午前製図す。十一時にデテールス完成す。中野先生の講義は休みなり。午後は講話会にて今川氏の水力論あり。

十二月一日

実験はセルフ・インダクションの測定なり。(アンダーソン氏の法による)好結果を得ず。

午後は図書室に籠城して蓄電池の取調べをなす。

十二月二日

 午後は蟄居して又蓄電池の取調べを為す。夜は試験予備として発電器を調ぶ。

十二月六日

 午前は製図す。

 中野先生休講。午後は実験、好結果を得ず。夜は蓄電池を少しく調べ又試験の準備などす。

十二月七日

演  説

 午前製図す。

 午後一時より同級の巧学会にて余は蓄電池に就き演説す。三時半に終る。

十二月八日

 実験せしに略ぼ好結果を得たり。

 午後は製図す。

十二月九日

 午前は中野先生休講す。本日より本年は講義せずとの事なり。

 午前午後とも四極発電機のトレーシングを為す。(中略)

 夜は片山、中島、高野等精神的何々とか、心理学的何々とか、悟りとか愚なる大論せし為め余は勉強せむとて机に向ひしに出来ず、大に心地悪し。

十二月十日

 午前はトレーシングを為し終り、青色写真を為せしに好結果を得たり。

十二月十五日

     学 期 試 業

 交番電流測定の試験なりき。問題は五題にて六ケ敷きものなし。最後の一問題は記憶不分明を以て書せざりしは残念なり。去りながら第三問を正当に計算して答へたるは余と荒川氏とのみなりしは心地よし。兎も角も四題は完全ならむ。

十二月十六日

 電信電話の試験あり。問題簡易にして皆な出来たり。要するに二日間の経過佳良なりき。午後は寄宿にて午食して又製図室に入りて製図せしに、市来崎氏に誘はれて上野を散歩し商品陳列場を見物して帰る。

十二月二十日

 発電機の試験ありたり。本日のは不注意の為め一題遣り損じたり。残念なり。結果は中の中位ならむ。要するに不注意なりしは如何にも残念なりき。

十二月二十二日

 葛西氏と約束したれば八時半に出発して新橋停車場にいたり、十時十分の発車にて川崎に至り電鉄を見物す。工事も大分進行せしも、エンヂンは今日漸く船にて横浜より来りたる処なり。ダイナモは船に遅れてバンクーバーに残されたりとの事にて技師大閉口、依て三吉より臨時に発電機を借入れむとせしに、エンヂーンのクランクシャフトなしとて技師益々閉口す。二時半に辞して帰る。

十二月三十一日

歳 暮 感

 例によりて歳暮感を記せしめよ。

(前略)前半期に於ける学術上の効果は一々枚挙すべからざるも、若し其一班を知らむと欲せば余の雑録を見よ。

 余は其巻に於て余が得たる知識の幾分を留めたりと信ずるなり。

 雑録総ページ数二百余、包蓄するものは

・工業冶金術あり、

・機械製造あり、

・電気測定法あり、以て幾多の知識を収め得たりと信ずるなり。

 

 学年試業の成績に至りては最始に余が望みし如くならざりしも、余は自ら信ずる点に於て充分なる結果と信ずるなり。受験総数二十四名にして登第者僅に十四名なりき。而して余は其第七位に席を占めたり。固より優秀には非ざるも余は自ら満足するに躊躇せざるなり。

 

 暑中休暇中には修学旅行として沖縄丸に乗り組み、噴火湾及千島国後海峡の海底電線工事に従事したり。これ余が最も有益に且つ愉快に感じたりし処なり。而して若し後来余にして海底線工事に従事することあらば、余は固き自信を以て其工事を完成し得るを信ずるに至りたるは最も満足とする処なり。

 

 本年の後半は晃南日記之を明にするを以て再びせざるも、其金英館上の苦戦は歳暮の感を記するに当りて、余の最も得意として喜ぶ処なり。

 

 人生の希望なるものは年々歳々変化するものなりとかや。而して其変化の最も多き時代を書生時代となす。余は毎歳暮に其希望を記するを例とせり。今茲に本年に於て盛なる希望を述べしめよ。

 

 余は本年に至りて旅行をなし、

・諸所の工場を見物して我国工業の幼稚なるに驚き、

・又海外雑誌を読みては欧米諸国の盛大なる規模に驚き、

・愈よ業成りて社会に出づるの日に、

・一小電気会社の番人となるは欲せざるに至れり。

・我国の工業振はざれば、之を振はしむるは吾人の任務にして、決して吾人は会社の番人を以て終る可きものに非ざるを深く感じたり。

 

 然らば如何にして其目的を達するやと云ふに至りては、余は総てのものを犠牲として、米国に渡りて彼の地の大電気会社に入り、如何なる辛苦に遭遇するも奮励一番して彼地に根拠を固め、都合によりては一生を彼の地に終りて業を完くするも辞せざるなり。

 之れ本年余が胸中に盛に計画せられたる設計なりき。要するに余は日本の小なるにイヤになり、世界の舞台に於て余の力を振はむことを欲し始めたるなり。(後略)

 

明治三十二年

一月七日

 今日は久し振りで勉強してダイナモの設計を始む。

一月十六日

 午前登学せしに、本日山川助教授新橋に着する由なれば直に新橋に至り迎ふ。十一時に着せられ、

(この前に馬場、稲田二氏と新橋交換局を見る)(後略)

一月二十四日

 終日製図す。帰宿してより出でず筆記などす。

一月二十六日

川崎の興津氏より電鉄落成したれば見物に来れと報ぜられ、朝七時半に出発して十時に着し見物、乗車す。

心地よし。

一月二十七日

昨日川崎より借り来りたる図を写す。

一月三十一日

製図、エヂソン氏発電機全く成る。

二月一日

 午前十一時より午後一時まで玉を突く。午後一時より市来崎氏の地下線式電鉄の講話あり。

二月四日

 午前登学してウイーネル氏発電設計書の印刷を為す。

二月八日

 午前は保科氏の電力分配、午後馬場氏の交互誘導係数測定法の演説あり。

二月九日

 水力、発電機、蒸気の三講義あり。

二月十四日

 中野先生は休講、今日も亦カンテン板印刷を為す。

二月十五日

 午前は荒川氏の「アーマチュアー・レアクション」に就て、

 午後は植木氏の「インダクション・モートル」に就ての演説あり。

二月十六日

 大に雪降る。風邪の気味なれども登学してタービンの講義を聴きて帰る。

二月二十二日

 午前は植木氏のインダクション・モートルの演説あり。

 午後は荒川氏アーマチュアー・レアクションの続きあり。夜は眼病(注 トラホーム)にて何も為さず。

二月二十三日

 午前は井口、中野両先生の講義あり。

三月十五日

 午前は渋沢氏の演説「トランスホームに就て」あり。午後は余は「長距離電力輸送」を演説す。

三月二十九日

 (前略)午後零時半に日光に着き、小西にて昼食して日光の発電所を観、中禅寺に着したるは午後六時、

  つたやに一泊す。

三月三十日

足 尾 行 き

 中禅寺湖を船にて渡り、雪深きアセガタ峠を越え、午前十一時足尾銅山町に着し栃木屋に入る。

 午後本山に至りて小島技師を訪ひ、撰鉱所を見物す。帰りて栃木屋を出で万里軒に転宿す。

 夜警官来りて余等の住所姓名を問ふ。

三月三十一日

 電気部を見物す。富永、益田、新井三氏に会す。三氏と共に昼食す。

 午後は精練所を見物し、倶楽部に至りて球を突く。

四月一日

 法元技師に誘はれ小瀧の発電所及其他を見物し、昼食を饗せられて銅山を一周して本山に来り発電所を見、

 此の所にて今井、保科二氏に会し、共に工作部に来りて電気主任宮原氏を訪ふ。暮帰宿す。

四月十日

 本日より登学してモートルの設計を始む。

四月十九日

 午前はモートルの能率の実験をなし更に得る処なし。

四月二十一日

 神田金清楼にて電気科学士学生親睦会を開き、中野、浅野、五十嵐三新博士を祝す。

 余と稲田と当番幹事にて大いに閉口す。

四月二十九日

 午後理科大学を見物す。

五月九日

 午後はモートルのエフィセンシーを実験す。

(荒川、稲田二氏と)スパーク多くして手を附けられず、何の得る処もなし。

五月十日

 午前八時より荒川氏を訪ひ電話本局に至る。十時に浅野先生も来られ見物す。

 夫れより電信局を見物して荒川氏と共に一時半に帰り、弥生亭にて昼食し、余は独り玉突に至る。

 今日は七ゲーム突きて一ゲーム負けしのみ。

 夜はノートの整理に忙し。

五月十七日

 今日講義なければ登学せず、終日籠城してスチームの筆記をなす。

五月十八日

 今日は身体大いに恢復(注 数日来胃痛に悩む)したれば終日登学して製図などす。

 実験もなせしがダイナモはスパーク烈しく好結果を得ず。

五月二十一日

 午前は蟄居、午後は春木町に玉を突く。夜は蟄居して電話を研究す。

五月二十七日

 

 午後文科及生物、地質学等の教室を見物して春木町に玉を突き、四時に帰りて夜は勉強す。

                    ー完ー

(注;これ以降 卒業まで記述が無いのは 戦災時「晃南日記」を亡失したため)