その2「スポーツと趣味」編

6,写真と撮影旅行

 

日記には写生(スケッチ)の話がよく出ています。例えば次のようなものです。

 

明治二十八年

十一月六日

 午前多田氏と近郊に写景(スケッチ)せむと出でて、巣鴨に至りて左に入り、市ヶ谷監獄を右に見て護国寺の裏に至りて三枚ばかり写景す。林の中にて昼の弁当を食ひて伝通院の坂を下りたる所に絵師の写景するもの、上手ならねども流石は商売だけにうまし。

 

十二月二十九日

 多田氏と約束して絵を二十枚画く筈なれば、今日は写景せむものとて大宮(注;栃木町の大宮:帰省中)の方に至りしに、適当なる場所なくて帰る。

 

十二月三十

 午後写景に出で日光山の遠望を写して帰る。其壮なること謂ふべからず。

 

この写生(スケッチ)の趣味が写真への関心につながったようです。

 

明治二十九年

三月三十日

 本日にて全校の試験は終なり。

 赤 羽 行

 朝水彩画を遣り居りしに、山田朔郎氏は写真器を持参して来りぬ。今日は好天気なれば出遊せずやと、例の愉快らしき風采して余を誘ふ。余も久しく待ちし事なれば弁当など要意して出発す。

 

 始めは江東に行く筈なりしが、今日は議を変じて王子に行かむとなり、団子坂より花見寺を抜けて道灌山に至り、袍衣神社の前にて千住の方の平野を一枚撮影す。

 

 兎も角も王子に至りて撮影して汽車を利用して帰らむとて、王子飛鳥山に至りて腰掛茶屋に休み見渡せしに、適当の所なくて遂に赤羽まで行かむと決して出発す。

 

 王子より先の道は田舎風にて写生、写真には適当なり。山田と目を見張りて適当の所やあると見廻はしながら進みしも、先に行けば今少しく好き所あらむと思ふままに、一枚も撮影せぬ中に赤羽に着きぬ。

 

 兎も角停車場に至りて発車時刻を見むとて立ち寄り、三時半のに乗ることに決して又川口の方に行く。赤羽の町にて犬に吠えられて山田は大に閉口す。渡し舟にて河を渡り、向ふ岸の砂原あれば之を歩みて好き所やあると探り歩みしに、漠たる砂原は長江の岸に開き、彼方こなたの森の影春霞に込められて碧蒼なる心地よさ、今まで曇りし空も晴れ渡りぬ。

 

 山田氏と二人にて砂地に腰を据えて心地好き限りなりと喜び合う。前岸には堤防工事忙はしきを見て弁当を開き食ふ。終りて余は写生を始め、山田は写真器を組みてあちこちと窺ひ見る。河の下流の曲れる彼方に森の影いと黒くて水に映りたるあり、其様仲々面白し。其左には一軒の家あり、山田は頻りに其景を称して写さばやと云う。

 

 余は思ふに距離余り遠ければ如何にやと謂ひければ、彼も打ち点頭き、如何にも彼の森と彼の家と今少しく近からむには好からむと云う。実には沙漠の如き有様は写真に見し遼東の平野に似たりなど笑ふ。

 

 余は此の森と家とのある処を写生して終りしに、山田も一つ写生せむとて余の画帖を取りて前岸の堤防工事を写しぬ。余も亦筆を取りて其続きたる同じ工事を写生す。如何にも大家風なる画なりなど二人にて大に笑ふ。 

 

 三時までは暫くなれば、河に沿ふて王子まで下りなば如何にと山田氏謂へば、夫れ好からむと余も同意して、写真器を収めて砂原を寛歩しつつ、春日の閑にして試験後の快楽を談じ、面白きことなど物語り、景風をながめつつ進みしに、余は何となく心に前途に河ありて道を断たむと思ひしかば山田に語りしに、山田も左思ふなりと謂ふ。進みしに果然河ありて進む可からず。今に至りて考ふも無益なり。左に折れて川口に至り見む、彼方に見ゆる寺に至りなば好き場所あらむと、田畠の間を伝ふて至り見れば川口善光寺と謂ふなり。

 

 面白き所も無ければ、愈々帰りて先きに渡りし渡し所に至りて撮影せんと、帰りて渡し場の手前より彼の善光寺と鉄道の鉄橋とを見れば仲々得易からぬ景色なれば、器械を組みて撮影を始む。山田は余は景色中の人物となれと謂ひたれば、余も夫れ好からむと走りて堤より岸に下りて、スケッチブックを開きて鉄橋を写生する風なせしに、やがて撮影し終りぬ。此の所にて其左なる処を連ねて撮影す。

 

 器械を収めて渡しをわたり停車場に来りて一時ばかり休みて汽車に乗りて帰る。上野にて山田氏と別る。嗚呼是近来の最快事、吾何の故にかくも快なる哉を知らず。快なり快なり、吾は一生忘る可からざるの快事なりと思ふなり。

 

四月二十四日

 去月山田朔郎氏と赤羽辺に写真を撮りに行きしに、此の頃漸く出来上りしが、如何にも粗悪にして持ち来るは嫌なれば、余が帰宅する時に共に来りて観られよと山田氏は謂ひたり。今日は都合好ければ是非行かずやと誘はれて、遠藤氏をも誘ひて氏と共に御茶の水の氏が宅に至る。

 

 現像の時に過ちて此の如くなれりとて三枚の写真を出して余に恵みぬ。如何にも出来損ひたるものから余も大に之を惜しみなどす。去れども其一つは立派に出来たり。

 

 山田氏は之より音楽談を始め、部屋にありしオルガンを得意に奏す。面白き事限りなし。独乙の国家あり、マルセーユあり、ワシントンマーチあり、フェネラルマーチあり、其面白相なること実に羨ましき程なり。遠藤氏も君が代など試む。余も試みしが手足一致の運動出来ず、仲々六ケ敷。

 

五月三十一日

 川 崎 行

 日曜なるも試験前の事とて神田明神の境内測量をなす。午前七時に同所に至る。吉沢氏ありて他は未だ来らず。先ず共に二人にて各ステーションの角を測る。程なくして他の諸氏来る。余と吉沢とはトランシットを扱ひ、他はオピセットを取る。午前十一時までに事務大いに進む。

 

 終わりて余は山田朔郎氏との約束により、氏を御茶水橋の居に訪ひて写真撮りに出発せむとす。氏は不在なりしが程なく帰り来らむ程に待ち玉へと謂ふ。 依て氏の室に待ちしに十二時頃来り帰る。偖今日は何処に行かむと二人にて名所案内など繙きて見しも見当らず、遂に川崎に至らむと決す。

 一時三十分に出発して、万代橋より馬車に乗りて京橋に至り、銀座を歩して山田は玉屋に寄りてトランシットなどを注文して新橋に着し、やがて二時半の汽車に乗りて三時頃に川崎に着きぬ。停車場を出でて大師(注;川崎大師)に至り見むとて行く。道すがら好き景もがなと見廻せど変りて面白き所もなし。

 

 六郷川の堤の上を通りて向島の如しなど評し、例の可笑しき談話してやがて大師に着きぬ。参詣して欄干に腰掛けて何処が好からむと評議して、終に大師の本堂を横より見て写真することに決す。

 技師の山田が位置を取りて甲斐々々しく写し終りぬ。次には池の畔に来りて見しに位置好からずして中止す。本堂の裏に廻りしも適当なる所なし。又元の池畔に帰り兎も角も一枚撮らむと征清記念碑を撮り、梅林の彼を処の茶屋を入れて写さむと今度は余が位置を取り、焦点を合せて山田は写真中の人物たらむと記念碑の脇に腰掛く。やがて撮影し終りて帰途に就く。

 

 六郷橋まで来りしが未だ早ければ近傍を歩き見むと橋を渡りて大森の方向に行く。眼を皿の様にして其処此処と好景色を探る。

 左に折れて鉄道線に出づ。山田は鉄道の真正面より進行する汽車を写し見むと発議す。好からむと線路の正面に器械を据ゑて汽車の来るを待つ。

 

 田に在りし農夫は珍しげに来り見る。依て余が彼に乞ひて好き位置に立たしめたり。汽車は東京より来りぬ。山田は得意然と写し終りぬ。如何なるものが写りしか明日の現像が楽しみなり。

 帰りて六郷橋の畔りに来り余は橋を写したり。停車場に帰りて茶屋にて休憩す。山田の発議にてビールを飲む。山田は下戸、余も勿論同じきなり。

 小瓶一本にて二人が赤くなるとは恥かしき次第なり。汽車に乗りて新橋に着きたるは七時なりき。(以下略)

 

六月一日

 化学の実験あり、遂に出来ず。(Fe属の分析)午後四時頃より山田と物理室の暗室にて写真の現像す。薬品不良の為め仕損じたり。之は大師本堂の分なり。

 

六月二日

 三時頃より又山田と現像す。余が写したる記念碑は立派に現像し得たり。楽しみ居りたりし鉄道は大に失敗す。之は撮影したる後に其番号を忘却したる為め、其上に余が六郷橋を二重に撮影したるなり。故に其景色はメチャメチャとなりしなり。

 

九月二十一日

 午前の製図のみにて課業終る。午後は興津と多田と来りて散歩を勧む。二氏と上野公園を散歩せしに、野口耕一氏の写真器を持ちて散歩に来りたるに会し、共に博物館の裏なる三代将軍廟前にて器械を開き、野口氏は余等を撮影す。

 又 鶯谷上の高台にて一枚撮影して帰り、共に谷中より根津神社の大祭を見て、野口氏宅に立ち寄りて赤飯を饗せられ、辞して帰りて多田の下宿に寄りて小説を借り、途中にて高野に会し五時半頃に帰る。 

 

十月二十一日

 間中伯父は今日午後二時半の列車にて北海道へ向け出発す。余も止むを得ず休課して之を送り、夫れより鉄道馬車にて本町の浅沼に至りて写真器を見る。

 

十月二十七日

 午後は数学休みとなりたれば、日本橋なる第三国立銀行に至りて、為替を取りて(注;家兄からの仕送り)本町の浅沼写真店にて器械を購ふて帰る。元来写真は余が積年の志望にして未だ志を果さざりしに、今度母上よりの許を得て購ふに至りしなり。

 

十月二十八日

 夜本郷通りに至りて「写真術」を購ふ。

 

十月二十九日

 正午に浅沼より写真器届く。放課後三時半頃尾崎と本妙寺内を撮影す。帰りて尾崎及宣継を撮影す。夜尾崎及宣継と不忍に散歩し、帰途蒸留水及ランプを買ふて帰り現像す。一枚(肖像)は好果なり。

 

明治三十年

三月三十日

遊 豆 記(一名写真旅行)

 一度写真の門に入りしは去年の明日即ち三月三十一日、今を去ること三百六十五日のことなりき。夫れより如何にかして器械を購はむと決心したり。夏期の旅行に不計も山田氏に大津に会して、又も一層の写真熱に侵され、去年の十月には遂に家兄の恵にて器械を取り揃へたり。幾枚となく写し見たり。或いは故郷の風光を紙に載せて帰り、或いは高尾の秋色を懐にして帰り、其間忘るべからざるの快味を感じたり。

 

 茲に至りて此の春期休業には長閑なる春風にあこがれて伊豆の海岸白砂青松の間に悠遊せむとするの念禁じ難く、小室氏と約して遂に写真旅行を企つることとなりぬ。茲に至りて山朔を誘ひしに彼は横須賀に修学旅行ありとて応ぜず、野口耕一氏を誘ひしに笑ひて諾す。

 

 昨夜掛けたる眼覚し時計に鳴り出されて、面白き夢を破られて起き出づれば五時なりけり。冷飯をサラサラと掻き込みて洋服に身を固め、ヅボンの下には脚絆もて足を固めて写真器(小室の)を肩に打ち懸け出発す。万世橋に至りしに未だ鉄道馬車来らず、車に乗らむとせしも果さず。其内に後より野口氏は人車にて来り、先に新橋に向ひぬ。余も程なく車に乗りて停車場に着きたるは六時半なりき。これより発車までは一時間半も待つなり。退屈して居りしに七時頃に小室氏も来り会す。

 

 七時二十五分に発車す。天は曇りて品川の沖も霞の内に曖々模糊として七砲台辺り波平かなり。川崎に至りし頃は、細雨漸く降り来りて三人共に気が気でなし。十時頃に国府津の停車場を出で鉄道馬車停車場に入る。馬丁共盛に勧むるまま遂に中等に乗る。小田原に着きしは十一時なりき。これより雨を冒して十数町を歩し、熱海行の人車鉄道停車場に至り茶店に憩ひて昼食す。始め下等の切符を買ひしも後に中等に換へて十二時半に出発す。

 

 人車鉄道とは世界無比の考案ならめ。流石は人力車の本家たる日本人の設計なるかなと大に笑ふ。小田原より熱海まで行程十六哩、四時間を費す。途中の景色仲々面白し。高きに登りては相模湾を望み、磯打ち浪の雪を飛ばすに似たるを眺めて面白し。下り坂は自動鉄道に彷彿たり。行程総て海に望める山腹を行くなれば此の如く面白きなるべし。

 

五時に熱海に着きし頃は雨量益々多く、濡れ鼠の如くなりて露木と云ふ旅亭に入る。

 

 熱海の温暖なるには驚けり。道中汽車中にて外套に包まれて震へ居たりしに、熱海に近づきてより外套の不要になりたる心地する程なり。露木に入りてよりも単衣にても別に寒からず。

 

三月三十一日

 明くれば雨は収まりたるも雲未だ晴れず、今日の天気如何にと気遣ふ。見れば南の方は晴れて青空を見るを得たり。喜びて八時頃に客舎を出で、有名のガイサーを見物して伊東に向ふて出発す。先ず海岸に行かむとて熱海の町はずれより海岸に出づ。熱海の市街は山の麓にチラチラと見ゆ。白き烟の高く揚るは今しもガイサーの噴出せしならめ。器械を取り出して二枚写真す。

 

 彼方の鼻の高所に茶亭あるを見たれば之に行かむとて行く。これは魚見崎とて上に見晴亭と云うあり。景色弘豁にして雄大なり。暫く憩ふて出発す。山二つ三つ越えて海岸に下り、人家のある所に至りて網代に行く道を問ひ、屋家の間道より進む。仲々に嶮岨なり。

 汗を流し息を切らして山を越え下れば網代湾を眼下に見たり。網代の清水屋と云ふにて昼食し其二階より湾を撮影す。別に命じて蝦を煮させて食ふ。これより少しく遠廻りなれど屏風岩を見て行かむとて行きしも道悪しくして、遙に之を眺めて野口氏一枚撮影して山道に入り宇佐美峠にて一枚撮る。峠頂に一茶亭ありて入り憩ふ。これより伊東まで三里。

 疲れた足を鼓して漸く伊東の猪戸の山田屋と云ふに泊す。ここにも温泉ありて清潔なること比なし。

 

四月一日

 朝七時に出発して修善寺に向ひ、夫れより天城山を越して下田に至らむとす。

 柏峠の単調なる道を登りつ降りつして、峠も尽きむとせし頃に炭焼小屋あり。烟の立つ様面白く、河の流れなどありて都に近くては得る能はざるの景なれば、小室に写さずやと勧めしも不賛成にて却下せらる。野口に勧めしに氏は喜びて写す。山を降りて八幡と云ふ村にて橋を一枚撮影す。

 

 下大見村の茶亭にて菓子を食ふ。早十二時なれば午食を為さむとの議ありしも、修善寺にて食はむとの議勝ちて出発す。田代にて河を隔てて前面の景色を写す。柏久保と云ふ所より細道に入り、渡船にて河を渡り狩野川の上流なる架橋、遠藤橋を写す。橋の下には馬を曳き来りて繋たるものあり、橋の上には旅僧の歩むあり、面白き景色なりき。

 一時頃となりたれば空腹謂はむ方なし。元気なくも峠一つ越えて修善寺に着す。新井と云ふに宿らむと求めたるも得ず浅羽と云ふ家に泊す。夜食後に散歩せしに新井とは隣りの家なりき。夜雨降り出しぬ。明日の天気を気遣ふ。

 

 途中にて小室は下田行きに不賛成となり、沼津に出でて帰らむとの議を起す。野口之に反対す。余は其何れをも是非せず。小室に謂ふて曰く、余り其事を謂はずとも其議は成立せむと。果然野口は靴の豆を作りて一歩毎に苦しむ。此に至りて遂に沼津に出でて汽車を利用することとなる。

 

四月二日

 修善寺に逗留す。終日寝転びて不平を云ふ。午後は葡萄酒を飲みて午睡す。夜は菓子を食ふ。

 

四月三日

 六時半に宿舎を出づ。修善寺及河の景とを撮影して江の浦に向ふ。天野にて狩野川を渡り山に登れば江の浦湾は眼下にあり。湾内の景一枚及洋形帆船など撮影す。江の浦の鼻を廻りて獅子浜に出づる所は景色絶佳なり。

 岬あり、嶋あり、牛臥山は黒く青く島の彼方に見え、愛鷹山は其後に高く、其背に愈々高き芙峰は雲に包まれて見えざるは惜しむべし。此の所にて一枚写す。海浜院、御用邸などの前を通りて沼津の程近き所にて休憩して寿司と菓子とを食ふ。

 

 此の時小室空腹にて声さえ出でず。沼津を通る頃は野口足を痛め片足引きずり余等の後を追ふ様見られたものならず。沼津に着きたるは一時頃なれば泊るには早ければ、今日逗子まで行きて菊池米太郎氏の病気を見舞はむと停車場に至り、機関車を撮影して二時五分頃汽車にて出発、道中の景色今は珍しからず。

 変りなく好きは富士の容、函山の幽邃ならめ。車中にて今日は大磯に一泊せむとの議起りて遂に下車す。西風、辰市等に会す。百足屋と云ふに一泊す。暮に野口は独り鴫立沢(注;西行ゆかりの地)に来る。

 

四月四日

 八時二十分の発車にて逗子に至り、停車場を出でて菊池別邸に至らむとせしに、途中にて木村、菊池其他二人に会す。木村は今日江の島を見物して帰るなりと。余等も茲に菊池に会したれば直に同行せむとて停車場に帰る。菊池等鎌倉まで送り来る。

 

 七里が浜を閑歩して写真など撮り、江の島につきたる時は一時頃なりき。金亀楼にて昼食せむとて入る。始めは粗末なる座布団なりしが程なく絹布団と代へしなど余等を何と見しや可笑し。

 

 久し振りにて御馳走に有り附き舌を鳴らして食ひ終りて一物も余さず。下女来りて御手の付かざるものを折詰めにせむとキマリ文句を云ふ。余等笑て曰く、若し御手の付かざるあらむ、包み呉れよと。女中大いに窮す。

 

 児が淵にて三人を撮影せむとて石燈籠に腰を据ゑ木村氏に写さしむ。帰途に就きて江の島入口の橋を写す。

 

 これより藤沢に来り五時半頃の汽車にて帰京す。今日は休日なれば江の島見物も多く、又横浜貿易商青年運動会の大磯よりの帰り多き為め、汽車中の混雑謂はむ方なし。八時過ぎに新橋に着き歩して本町に至り、小西にて写真の薬品など買ひ神田に至り藪蕎麦を食ひ小室に別る。

 

 本郷通りにて野口に別れ、菊坂にて木村に別る。

 

五月九日

 九時頃に小室氏来訪して共に高等学校に至り、第三回目にベースボール部員を写す。午後は家居して鍍金をなす。夜現像せしに又々不良なる結果となりたり。如何なれば此の如く打ち続きて不幸なるか、暗室の不良も其一原因なるべくデベローパーの悪しきも影響すべく、余の未熟なるも一原因なるべし。

 

 兎も角も引き続きたる失敗と、学科の面白からざる(注;数日前に助教授から一学期の成績不良と注意された)と、或る人との交際の円満ならざるに至りたると、昨今脳の遅鈍なるとは余に於て少なからざる不快を生ぜしめたり。

 

五月三十日

 午後は工科有志より成る写真会の品評会ある筈なれば、一時より南門内の学工会に至る。本日の出席者は中沢教授、鴨居、江守、斯波の助教授連中及び学生六七名にして出品したるは僅かに四名のみなりき。(以下略)

 

七月二日

 午前に慈母と妹梅とを撮影す。好結果を得たり。午後又所謂隠居部屋を写す。

 

 明治17年頃、素人写真家として、近衛、二条、徳川といった華族連が活躍し、写真協会という団体設立。そして明治28年に酒問屋の鹿島清兵衛なる人物が、写真の趣味が高じて木挽町に洋風の写真館を建設し大評判になった、と物の本にあります。

 浪平は、写真専門学校が初めて設立された時期に、未だ世間一般の趣味とは言い難い写真術(乾板の時代)に挑戦して、苦戦しながらもあきらめることなく、技術の習得。

 

 また日本で映画(活動写真)が上映され始めたのは、神田錦町の錦輝館で明治29年。勿論浪平は友人と観に行きます。

 

明治三十年

三月八日

バイタスコープ

 夜 谷、小室、吉沢三氏と錦輝館に至りて活動写真を見る。面白し。洋行したる心地す。

 帰途三氏と共に本郷勧工場の隣の汁粉屋にて食ふ。

四月八日

 小室を訪ひ葛西をも誘ふて神田に至りて活動写真を見る。 

 

 趣味とは言えないと思いますが、友人と随分遠くまで自転車を乗り回すことも楽しんだらしく、その様子が頻繁に日記にあり。友人がぶっつけて壊した自転車を、大学の物理工場で「ダライバンにてネジを切って」修理。このように、浪平のともかく新しいものに興味を抱き、困難を乗り越えてチャレンジする姿勢は特筆に価す。