2、ボート競漕
ボート競漕は高等中学入校前の英語学校のボート会に入会して始めたと「身辺雑記」に書いている。ローンテニスは一流になったが、ボート競漕は身体能力からか正選手にはなれなかったと。
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ボートレースは、明治15年一高と東京高等師範学校の競漕に始まり、明治19年一高と高等商業学校の競漕、そして明治37年の早慶レガッタで人気に火が付く。
以下に、日記に記された主なボート競漕会の記事を抜粋。このそれぞれの競漕会に向けて、実に頻繁に「向島に至る。ボートを漕ぐ」という記述が登場。
その都度、本郷から向島まで徒歩、短艇の練習は数名でやるのでしょう、仲間同士の人間関係も相当に鍛えられ、更にはリーダーシップが涵養された。
明治二十六年
一月二十五日(水)
雪 見 記
雪降る事五六寸にして、況して午後より課業なければ雪見せばやと思ふ。友二三来りて墨水にボートを漕がずやと勤むるも、昨日手に傷せしを以て漕ぐこと能はねば、只墨堤に雪を見むと独り徒歩にて向島に向ふ。
竹屋の渡を渡る時、吾校のボート勇ましく櫓声をそろへて漕ぐ様の勇ましさ、日本の元気は実に我校にありなど誇る心地ぞする。同じ渡し船に乗りたる官吏風の男、雪見酒に酔ひし如きが此の様を見て、「高等中学万歳、元気と勇力を養ふは此の時なり。」など云ひしも面白し。
墨堤を眺むれば雪は白く水は益々黒し。文人墨客の杖を曳くもの多し。
一月三十日(月)
第一回潜龍会競漕会
潜龍会の端艇競漕会を開く。午前八時頃より向島に至る途を上野公園に取る。木々の枝々に降り積もれる雪は五月の花も決して及ぶ可きに非ず。殊に博物館の内園の景好き事謂はん方なし。向島の景も又絶佳なり。
十時半頃より競漕を始む。第一番競漕に整調を漕ぎて負け、九番レースに補欠として又整調を漕ぎて勝利を得たり。又十一番レースには二番を漕ぎて僅かに負く。
当日は来賓三番と会員競漕十一番を合せて十四番ありたり。又番外として愛嬌競漕を施行せり。即ち会員中の頭色の最も紅、白、黒なるを以て組みたり。
余は赤の舵手、石橋和は黒の舵手、森脇幾茂氏は白の舵手にして、
・赤の漕手にて中野秀次、橋本源二郎、野口安太郎、片山正夫、福島縫次郎、尾崎勇次郎の諸氏、
・黒は岡松匡四郎、石川成円、志田勝民、永山胖四郎、風間礼助等の諸氏、
・白は斯波孝四郎、栗林巳巳三、杉本東三、植村定造、只野薫太郎等の諸氏漕手となり、
遂に赤の第一着、白の第二着、黒は第三着となり、賞品は第三着へ鏡一面づつ、第一着へは靴下一足なり。午後五時散会す。
二月二十六日(土)
白鴎会競漕会
風強し。白鴎会の春期競漕会あり。来賓として競漕す。船は梅若、流は第一なり。三艘は始めより接近せり。第一なる余等のオールと第二の船のオールとの距離は僅かに一間位なり。十二三本位漕ぎしときは三艘の力同等にして見事全校に誇るの競漕もやと思ひしに、あはや第二と第三とはハウルを為したり。
其内余等の船は三艘位も先になれり。面白からぬ競漕ありては不名誉なりと余等はしばし待てり。ハーウルは解けり、漕ぎ出せり、漸く我船に近づけり、三船とも力を張れり、決勝点は近づけり、砲声は轟けり、赤き旗は翻へれり、我船は勝てり。
四月八日(土)
帝国大学の競漕会あり、選手は医科の勝となりたり。
四月九日(日)
高等商業学校の競漕会あり。
四月十六日(日)
春季競漕会
校友会春季大競漕会を施行す。午前八時頃より雨降り始めたり。(中略)浅草橋野田屋に至りてボートに乗り組み向島に至る。雨は益々強くして晴れる見込みなければ遂に競漕を中止せり。
四月十七日(月)
昨日の雨天の為競漕は第五番より本日施行するに至れり。
午前十時頃より晴れ渡れり。余は第九番に競いて第一着にて勝利を得、又十七番にも競漕す可き所、兵頭正通氏の懇望により余の位置を譲り渡したり。第二等選手は一級一着、二級第二着となり、選手は一級第一着にして二級は第四着となり、二年第二、一年第三着なりき。
四月二十三日(日)
共立学校の競漕あり。
五月七日(日)
日本中学校の競漕会あり。出漕する事三回にして全敗となる。
五月八日(月)
潜龍会の小競漕会あり。余は三回にて一回勝利。
五月十四日(日)
尋常中学の競漕あり。
十一月二十三日(木)
向島に至り錦流会の競漕を見る。
十一月二十六日(日)
潜龍会競漕
一天掃ひし如く一点の雲だになく、風さえ吹かず無上の天気なり。十時頃より競漕を始めたり。第二回には四番を漕ぎて敗れ、第六回競漕には二番を漕ぎて又敗れ、第八回競漕には補欠として二番を漕ぎて勝利を得たり。又十二回競漕には四番を漕ぎて又失敗す。総て十四回(来賓とも)にて四時半頃終る。
此の夜上野三宜亭にて潜龍会員の懇親会ありて、会するもの四十余名盛んに飲み且つ食ふ。八時頃寮に帰る。寮内破るるばかりなり。
偖ても人心を狂せしむるも酒、元気づくるも酒なる哉。
明治二十七年
一月三十日(火)
午後錦流会の春期競漕を観る。
二月十八日(日)
潜龍会競漕
四回出漕して二回勝利を得たり。併し四回とも四番を漕ぐ。
四月十二日(木)
商業学校は去る八日競漕の処、雨天の為延引して今日施行す。
四月十四日(土)
帝国大学の競漕会あり。本年は法科大学の勝利となる。
四月十五日(日)
日本銀行の競漕会あり。烟火を打ち上げしに過りて火を失し、本所須崎町牛の御前近傍を焼き払へり。折から北風強かりしかば遂に亀戸村に来り、二百余戸を焼尽す。我級の選手の下宿せる所謂潜龍窟も此の災に罹りぬ。
四月十六日(月)
春期大競漕会
花は散り尽して青葉となりぬ。北風強くして波荒し。如何に金骨の健児なればとて、此の様を見て辟易せざるに非ざりき。
午前九時より競漕を始む。第一回は直航にて退潮、向ひ風なれば八分五秒の長時間を費せり。漕手の苦困思ひ遣らる。其後上潮となりては北風の為波殊に高くして、余の十番レース頃は其最も困難なるものなりき。此の競漕は見事四着にて敗れ、十七番レースは第二着にて再び敗れぬ。偖て此の日の二等選手競漕は見事緑即ち我級の勝となり、一等選手は二年即ち赤の制する所となりぬ。
日頃人も我も吾れこそ今年の功名せんと思ひし我選手は、脆くも第四着となりしは返す返すも口惜しき限りなりき。
此の夜上野松田にて選手慰労会を催す。会するもの六十人。
四月二十八日(土)
学習院の競漕会あり。
五月五日(土)
小競漕
本日潜龍会の有志競漕会あり。総番組は九番、余は四回出漕す。其中三回は舵手、一回は整調、其整調のとき勝てり。
十一月二十二日(木)
秋季競漕会
今日は校友会の秋季有志競漕会なれども余は過日より胃病に罹り、今は全癒せしも練習をなさざりければ出漕せず、至りて残念なり。
(中略)午後より競漕見物に行く。デパの競漕は既に終り、然も二部の勝ちとは難有嬉し。程なくセコの競漕となりしに、相悪く二部三部はハウルを為し、メチャメチャにて異議百出して終に遣り直しを為し、今度は三部の勝とは残念。最後の選手競漕は一部は梅若にて第三流、二部は綾瀬にて第一流、三部は待乳にて第二流、見事一部の勝、我二部は然かも三着。
明治二十八年
四月十日(水)
春期競漕
我も老いたりと人や笑はんなれど、我が心は仲々去る事ならず。短舸の競漕に細きながらも此の腕を鍛錬せむと思ひしなれども、思へば又故郷にて心に懸ること多くて、帰省したき心は山々にて遂に帰省してければ、今日の競漕の練習は固より覚束なくて、今年のみは競漕せぬこととなりぬ。
競漕を見むとて向島に行く。午前は人も多からず例年に比して静なりしが、午後の混乱雑沓謂はむ方なし。世の戦国とは思ふことも能はぬまで、太平楽の極々たるものなり。
兵頭、乙部、岡野三氏と蓮玉庵にて蕎麦を食ふ。午後六時半頃選手競漕は始まりぬ。予想と違はず一年は遂に第一着、三年は二着、我が二年は最後となりぬ。
面白からねば慰労会の松田にあるにも出ず。七時半家に帰る。
四月十三日(土)
帝国大学競漕会あり工科勝つ。
四月十五日(月)
此の日城北尋常中学校の競漕会あり。
四月二十日(土)
潜龍会競漕
去りぬる日我が潜龍会は広告して曰く、噫、潜龍会は竟に潜龍にして終らんとするか云々。又曰く、来る二十日を期して競漕会を墨水に催して、以て風雲の気を呼ばんとすと。
今日は実に其当日なり。午後零時三十分より競漕は始まりぬ。朝より吹きし北風も今は南風に変じて心地能く、毎年にまさりて面白き競漕会なりき。殊に余が舵手となりし時の如きは観るもの快哉と叫びたり。又分科選手のレースは見事白の勝ち、即ち我が二部の勝となれり。此の如くして終りたるは七時頃なりき。
十月十三日(日)
今日は錦流会の競漕ありて二時頃来賓として競漕す。余の組は尾崎、村田、福島、余、石川、安中、早川にして、敵の二隻は皆な名にし負ふ強の者のみなれば白色なる我組の評判は特に悪しかりき。柳下より競漕を始め、最初は余等の艇は大に遅れ渡場辺にて少しく抜き、決勝線にて僅に一二尺の勝にて勝つを得たり。
十月二十七日(日)
今日は工科大学の競漕ありて余等も来賓として出漕し、第三着にて失敗す。
十一月十六日(土)
昨夜は潜龍会のプログラムを書き、今日も午前九時半に課業終りたれば又書く。十時半よりボートハウスに至り艇を漕ぎて向島に至る。
潜龍会のレースは雨天のみ多かりしに、今日は近来稀なる小春の日和にて面白きこと限りなし。コースは長からず南風にて上潮なれば骨の折るる事も少く充分に漕げたる心地よさ。レース十回にて余は二回レースに負け、四回レースに勝ち最後のレースには負けたり。
(その夜寮に)井上、村田、其他のボート連は酔来りて大に騒ぐ。
十一月二十一日(水)
校友会秋季競漕
天気予報は曇天後ちに雨とあり、朝より一天掻き曇りて雨降らむとす。競漕は八時より始むとの事なれば食堂を五時より開きしも、朝寝して六時半に起き、七時出発して艇庫に至り、一年の船に乗せられて向島に至る。準備も仲々に整はずして競漕も後れて十時に始まる。
回数は二十回にて其内には大学来賓及職員レースありて、正午頃には既に十回を終りぬ。余は第一回レースに四番を漕ぎて失敗したり。午後一時半頃より雨降り始む。レースの以下次号の呼声高し。去れど残すは僅に数回なれば施行し終ることに決し、三時頃には終りぬ。
余は十回レースにも四番を漕ぎて回航レースに又失敗す。慰レースに出でて舵手となりしも、残念なる哉僅の差にて又失敗したり。選手は二年の勝つ所となり、デパは見事三部の勝つ所となる。其二部の有様の憐れさ謂はむ方なし。
松田にボート部の懇親会ありしも面白からねば出でず、葛西、多田二氏と雨を冒して帰る。
十二月一日(日)
乙未会レース
向島に至り乙未会の競漕を見る。余も三年の来賓として出漕して勝つ。舵手は栗林、漕手は尾崎、谷、楠本、三松、余、多田にして競漕は仲々見事なりき、始め余等は半艇身許り負けたりしが、石碑の辺より勝ち始め遂に勝を制したり。
明治二十九年
一月十七日(金)
工科三年茶話会
・・・山口教授は盛に往時運動界の景況を説き、殊に大学に於てボートの始まりし時代の有様を説き、聴者をして快哉と称はしめたり。先生の如きは老いて益々壮なるものと謂ふべし。
四月八日(水)
校友会競漕会
前に対商業校とのレースあればボート熱は非常に盛にして、這般のレースには出漕者三百人ありとか。去れば三年の古顔連は一回より出漕し得ぬとて不平を謂ふもの多し。
前日の雨にて何も彼も準備遅れて第一回は十時半頃なりき。余は第七回レースにて直航なり。整調は皆な選手の整調にて此の日の一等レースなり。余は二番を漕ぎたり。競漕せしに余等は殿りとなれり。余のヘタバリ方一方ならず。第十七番レースにも出漕したり。今度は回航にて余の整調なり。始めは後れ居りしが後に他艇を抜きて勝ちたり。
此の日の第二選手は二部の勝ちとなれり。選手は谷、塚本、斯波、鶴見、松田、工藤、多田の諸氏なり。選手は三部の勝ちとなる。我二部の選手は末広、真島、福島、松島、岡村、松村、森脇の諸氏なりき。
選手レースを終りたる時は早や日暮れとなりぬ。二部選手の慰労せむと思ひしに弥次連は多くは帰りて居らず。漸く十五人を集めてビール二ダースを買ひ、選手十四名に送り共に飲む。皆な大に酔ふ。井原、葛西、南沢及余等にて福岡楼の三階に至りしに、校長、教頭、舎監、山口教授其他海軍の大尉一人などあり。
余之に入りて漕艇の論を始む。井原と海軍士官と弁論最も盛なり。余は小室と鳥飯を食ふて諸氏を促して帰る。
四月十一日(土)
大学競漕会
六、七年の間、毎年々々待ちたりし対商業校との競漕は、愈々本日施行することとなりぬ。我校の弥次は水陸に分れ、寄宿生は主に船に乗ることとなり、艇庫より八艘、野田屋より十一艘、築地の丁子屋より三艘借りて都合三十二艘の艦隊を造りぬ。之を東西南北四寮にて四艦隊となす。各旗艦は我校のレースボートを以てす。余等も艇庫に至りて旧艇に乗りて向島に至る。程なくして二十余艘のボートは皆な向島に集れり。左なきだに商業の船と花見の船にて相集りたる船多ければ混雑謂はむ方なし。
又余等二十人にて横浜より汽船を借りしが、非常に大なれば之を学校の方へ譲り渡したり。之を司令艦として一致の運動をなさむとの議起り、之に賛するもの多く一大示威運動をなさむと決定したり。かくて全ボートは大倉の別荘の裏に集合し、漕手は皆な白布を帽に覆ひ、白布に校章を画きたる旗押し立てて二列に連りたり。汽船は之を引きて下流に下るなり。汽笛一声黒烟を吐きて流に順ひて下る。艇庫上の洋人ども白のハンカチーフを打ち振りて同意を表す。
墨田の堤上今は視線は皆な之に集り、拍手の声は耳を聾するばかりなり。吾妻橋まで下りて此所に休みてレースの始まるを待つ。十一番レースも済みて愈々今度と成りたれば、四艦隊は運動を始めたり。北寮は決勝線に近く、南寮は石碑と渡場の間にあり、西寮は渡場と柳の間に、東寮はスタートにありて今や遅しと待ちたりけり。程なくして二艘の船は汽船に引かれて出でぬ。両岸に和船を繋ぎたる商業の弥次連は赤旗を振りて盛に呼勢す。其勢仲々盛なり。我校も亦一歩も譲る可からずと、陸にはベースボール部員始め所謂土手弥次が狂歩し、水に四艦隊ありて狂呼す。実に局外者より見ば狂気の沙汰とや見ゆるらむ。
スタートの号砲は轟きぬ。余は石碑の前辺にありて遙かに見るに確に白は勝ちて見えたり。堤上堤下今は紅白を呼ぶの声のみにして遠雷の如し。渡場辺にては益々白は赤を制したり。石碑に来りて早や二艇身は勝ちたり。去れども流石は選手なり、何れも其ベストを尽しつつあり。其オールの立派なる、其ピッチの立派なる天晴選手の競漕なりと、能く見しものは数多くもあらざるべし。皆な我校の弥次は狂喜してオールを立て船中に舞ひ、オールを以て艇底を打ちて艇を破りたるものあり。
手にて舷頭を打ちて手の傷つきしを知らざるもの、実に彼等は狂喜せしなり。何は兎も角も選手のボートに至らむと、四方より集り来るもの甲船に当り乙船を撞き、其混乱雑沓はさながら狂者の集合の如く酔人の団体の如し。
ボートは集まりぬ、「花は桜木人は武士」は歌はれたり、やがて選手は陸上に揚げられたり、土手弥次は又狂喜して之を迎へたり、ボートは皆な艇庫の下に集まれり、「花は桜木」は繰返されたり。
気の毒なるは商業校の弥次隊なり。平和商会より寄附したる汽船はレースの途中より必敗を知りて逃れ去り、両岸の弥次は旗を巻きて去りぬ。而も彼等が何時去りしや誰も知らぬ程なりき。
弥次ボートは皆な我校の艇庫に帰りて選手の至るを待ちたり。一時間ばかり経て拍手は選手を迎へたり。之れより帰校して校庭にて一大野宴を開くこととなり、一同帰途に就く。諸生は未だ狂喜せり。道中にもブリッキ箱を打ち鳴らして「花は桜木」を繰返したり。行人は止まり家人は飛出して見る。偖も奇観にてありなむ。
校に着きしは八時頃なりき。之れより先き学習院は本日の勝者に酒三樽を寄附し、第二高等学校は我校の勝を祝して酒一樽を送る。
選手は来りぬ。亀谷氏一同に代りて慰労の辞を為し、又第二高等学校学生十数名の来会せしものに謝したり。一同之れより例の通り野宴を張る。
本日の大学分科選手は工科の勝ちとなりたり。其勝利は近来稀に見るところの立派なるものにして、石碑辺にては法科が一艇身も勝ち居りしに、僅の間に之を抜き一艇身を勝ちたりとか。伴氏の整調得意思ふべし。
我校の対商業の選手は舵手大野新一、整調杉本東造、五番佐野会輔、四番村田素一郎、三番御供昇陽、二番手塚敏郎、一番井上匡四郎の諸氏なりき。
四月二十六日(日)
商業校のレースあり。
五月十七日(日)
二部競漕
艇庫に至りボートに乗りて向島に至る。十一時頃より一回レースを始む。余は此のレースの整調にて敗北す。第五回レースには余は又整調にて立派なる勝利を得たり。始めは余と赤と二艘先きになりしが途中にてハウルを為したり。此の間に青は二三艘身も先きになりたり。余等のハウルは解けたり。余は非常なる元気を鼓舞して之を抜かむと始めたり。赤は落胆して中止したり。余は非常なる早ピッチを以て決勝線に入れり。見れば白旗は翻るなり。番外レースとしての三年の分組レースは余等即ち二の組の勝となる。十一番レースにも亦整調なりしが思ふ様に漕げずして負ける。全体として今日は余に取りては非常に具合好く漕げたるなり。
五月二十四日(日)
潜龍会
遂に潜龍を以て終りし我潜龍会は、本日を以て最終の競漕を挙行す。余は腹の具合悪しくして漕がず、舵手として四回出でて失敗す。
賞品は言問団子にして、別に記念章を会員に頒布せり。
七月十九日(日)
琵琶湖聠合競漕会第一日
去年を以て始まりし全国諸学校の聠合の大競漕会は、本日を以て第二回を再び緑水洋々たる琵琶湖上に開かれたり。会場は大津の打出浜にして、交道館(商業会議所)は其決勝点に当れり。
午前八時より開会の式を挙ぐ。会長籠手田知事の開会の辞あり、次に発起人総代岸吉松氏の報告、会員惣代高橋龍太郎氏(第三高等学校)の答辞あり、終りて直ちに開会す。
今回のレースは番回総数四十七回にして、之を今明両日に別ちて挙行するものにして、出漕者は五百余人の多きに達せり。
沖合には二艘の汽船ありて満艦飾となりて斯会を壮にしたり。一つは大津有志のもの、一つは本願寺の借切なり。午前は一艘の小蒸気船にてボートを引きしが到底終る気色なければ、午後は二艘にて絶えずボートを曳き行き七時頃までに漸く二十四回を終りぬ。余は十五回に四番を漕ぎて勝ち、十六回に舵手として又勝ちたり。元来の今日のレースは第三のコースを取りたるものは多く勝ちたるなり。余も二回ともに第三のコースなりしは勝ちしも珍しからず。
七月二十日 月曜日 雨
第二日
勝てば呑気なるものなり。今日も二回出漕する筈なれども他人に譲りて出でず。旅店の三階にて昼寝して花火の音のみ聴く。今日は山田、田口、田上、尾崎等勝つ。
午後雨を冒して会場に至りしに頭痛のみして面白からず、直に帰る。夜食して八景館に開かれたる懇親会に出席す。
面白からず。酒は飲めず。八時に帰る。小室、山田とラムネを飲みて直に寝る。田上、石原等帰りて騒ぐ。同志社生と将に喧嘩せむとせしが逃れたれば止む。塚本、斯波、竹山等十一時に来りて騒ぐ。
十一月八日(日)
工科のレースありたれば午前八時より尾崎と共に行く。最後のレースに失敗す。夜松田(浅草)に開かれたる懇親会に臨む。
明治三十年
四月十日(土)
大学の競漕
一天晴れ渡りて今日は帝国大学の競漕当日となりぬ。朝は北風強かりしがレースの始まる頃には収まりぬ。余は第二回のレースに出漕して途中まで来りしに、他の二艘がハーウルせし為め競漕を中止し再び発漕点より競漕したり。遂に失敗したり。四番は文科の第一デパにして見事工科の勝となり、七番レースには余再び出漕して立派に勝ちたり。始めは二艇身を後れしが石碑の辺より抜き始めて決勝線の少しく下にて二艘はハーウルせり。
余の船は此の時既に先きにありたれば此の衝突にも別に非常の損なく一着となれり。これより第二デパ二等選手、一等選手など皆工科の勝ちとなり、医科は二等選手二着の外皆三着なりしは気の毒なりき。
工科は全勝を得て茲に三連年の勝を全ふしたるは前後比なからむとて祝宴を兼ね、選手慰労会は鶯渓の伊香保に開く。
会するもの百余名、余も之に列す。十一時半に帰宿す。