その1「親族関係と立志」編

立志ならびに電気工学への関心

 

 

浪平は、友人とのいかにも書生っぽい議論、自らの見聞、読書、先達との交流を通じて、自身の世界観を鍛え上げる。日記の節目に記された、立身出世論、世間的名声論、学問の本質論などの考え方は興味深い。

 

また、大学1年次での落第は大変なショック、これを廻る記述は感動的です。

こうした幾多の思考の吟味を経て、浪平は電気工学の道、しかも学者の道を志す意思を表明するに至る、同時に日本という枠を超えて、アメリカへの移住に言及するなど、幕末の佐久間象山吉田松陰に似たスケールの大きさに驚嘆。

明治二十六年

一月十日

 夜石川、尾崎、天野三氏と放言高論、忽ちにして帰省中の田舎者の愚を笑い、忽ちにして国会県会議員に面会せし時の彼等の高慢を罵り、親類縁家なるものの余等に向ひて何学科を目的とするや、早や目的を定めよ、法学は不利なり、工学は不得策なりと、余の一身の事に口頭を挿む。

 嗚呼彼何人ぞ、才もなく知なく而して又学なし。只だ経歴の多きを名とし自ら揚言して曰く、余や君より正月のシメ縄を多く通れりと。

 経歴を以て論ずるは此の如き所に非ざるなり。一生の目的を定め、己の意思を確立するに当り他人の説を待って後にする、豈丈夫の本領とせんや。

 彼何ぞ不礼なる、燕雀は如何ぞ大鵠の志を知らん。彼等の論拠とする処は新聞にあり、然かも一小新聞の論説を見て法学士の売れ口悪しきを知り、工理文学士の不利なるを聴き、忽ち物知り顔して吾人の一身に口を入る、嗚呼何ぞ不礼なるや。

 

 学士にして名声を博する能はざるは其人の罪のみ、豈其修めたる学科の罪ならんや。然るに此の事実を応用して又学科を修むるなかれと謂ふ。何ぞ不礼なる哉。

 然れども彼等は又歯牙に懸くるに足らざるなり。何となれば其論の基拠とする処は微々たる一小新聞、而して其記者は皆碌々たる青二才のみなど、不平の心膓を覆して余す所なし。

 

 又論鋒は変じて卒業後の計画となり、再変して高等中学予科中の勉学法となり、三変して吾人の位置の不平となり、社会の学士を冷遇せるを憤れり。

(是は笑談なり)四変して吾人の位置及心思の変遷を推考して、他日子弟を教育するの方法及び方針を説き、痛言淋漓として其果つる所を知らず。如何なる小説家と雖も若し此の境遇に居らずんば、吾人の内幕に此種の不平、此種の論方、此の種の快談あるを知らん哉。談は止みて心浄々又清々。

三月七日

功 業 真 値

海軍大尉郡司氏の千島遠征の伝説囂しき限りなり。福島中佐の騎馬旅行あり、下瀬学士の発明火薬の成業あり、我国人に奇異なる影響を及ぼせし事少々に非ざるなり。我国人をして実業を重んぜしめ、進取の気象を誘発し、国家の富貴と強固とを謀らしむる端を此に開かんとす。

 

故に吾人は中佐の業、大尉の望、下瀬学士の発明、北里医学博士の発明の如き、之を万国に照して偉なり大なりと誇言する真価ある哉否やを知らざるに、其弘業偉図を賞するものは只だ能く日本人民をして、他日世界の競争に牛耳を取らしむるの曙光を発せしに依るなり。

 

阿弗利加未開人跡未踏の地も、他日日本男子隊をなし伍をなして探検する日ある可し。世界人類の知識の及ばざりし真理も機械も、日本人の手より出づるの日あらん。千島の極、琉球の端、鉄路馳走し電線蜘架するの偉観は将に十年後、即ち吾人の世界に至りて見るを得べきなり。

七月二十六日

    偶  感

 余は曽て思ふ、吾人が世路の難に当るや必ず遠大の志望を抱かざる可からず。王公将相皆な我が望む所なりと。而して余は其後ち再び惟ふ、人の世に立つや高位高官は人の希ふ所、名望勢威は万人の向ふ所なり。而して是れを得て其慾を満し、其望を達せしものは千万にして一人あるのみ。

 

 然るに我凡才にして此の大望を抱く、木に魚を求むると何ぞ異らんや。吾は高等中学に入り大学を終へ、而して学士の称号を得ば足れりと断定したりき。

 

 然るに或人曰く、英雄は常に希望を有し、其希望を満して足れりとせず、満さずして失望せず、只だ吾が力と天とを謀りて其事業を継続すと。余は此の言を聴きて三たび思ふ、人の能はざるものは即ち能はざるなり。能は即ち能ふなり。

故に不能の望は達す可からず、能ふ可きの望にして始めて達す可きなり。吾人青年が将に志を立つるや、恰も吾人が単一なる大道を進みて径路百千に分走する所に至りたると同一なり。

 

 此に於て吾人が最も必要なるは是より進む可き道程を定むるに非ずして、吾人が目的とする所に達する最短径路を撰むを最も必要となすなり。此の時に於て最も早く其目的を定むるものは最も早く其目的に近ずくを得べし。吾人が既に目的とする径路を撰びて進むに当り、能ふ限りは進む可きなり。ナポレオンとなるもワシントンとなるも、ワットとなるもニュートンとなるも、ミルトンとなるも何ぞ辞せん、余は其目的の軌趾(ローカス)を履みて進まんとす。

 

 故に絶望となりてヤケル事なく、満足して放逸となる事なからんを期するなり。

 

次の記述の論法も鋭いものです。以前、城塚登という学生に人気の社会学者がいましたが、「革命は民衆の不満が一定のレベル(intolerable line)を超えた時に起きる」という説を、放物線を描いて説明。

イデオロギーの要素を除去した分析の方法ですが、浪平が沸騰点に例えるのは見事な説明。

明治20年代は富山の米騒動、新潟の小作騒動、別子銅山の公害暴動などが発生。

八月五日

    感 慨 (不 平)

 又も不平、人性の世にある常に不平なきを得んや。或は位置を不平とし或は境遇を不平とす。又身の不幸、不如意より他人の行為に至るまで皆な人間不平の種ならざるなからん哉。

 然れども不平に軽重あり、大小あり、忍ぶ可きあり。

 

 人性の不平は恰も鉄瓶の沸騰せると同じ理ならん。此の瓶中の水沸騰点以下にある時は瓶の口なきも何ぞ患へんや。人の不平も亦然り、沸騰点以下なりせば何をか患へんや。若し鉄瓶を熱するの度は愈々高く、水は沸騰して瓶内の圧力は鉄壁の耐力を超過せしときは如何。

 

 幸にして其口ありて之を噴出するを得ば、其わざはひは小にして止まん。然れども若し噴出口泣くんば如何、知者を俟たずして知る可きなり。

 

 不平の気の鬱積せるに当りて鉄瓶の夫れのみならんや、轟然として大地を裂き、火炎万丈遂には人畜を害するの火山の破裂と同一のみ。

 

 而して不平の破裂は遂に人類に影響する大なるを知る可し。而して不平の破裂の最も恐る可きは長く発せんと欲して発する能はず、道徳により義理に依り面目に依り、即ち外界の連接せる万般の事情に依りて、脳裏に攻め寄する所の不平を漏らす能はずして、自ら制し自ら抑損して胸中の不平も跳梁を逞する能はざらしむる間は、外人之を見て其人の胸中幾万の不平あるも豈に知る可けんや。

 

 其人顔に笑くぼを作り言に喜悦を飾りてあるも、其脳中の烈火の炎々として其肝胆を焼熱するに非ずや。其人の脳漿も遂に之を入るる余地なきに至り、恰も火導一閃天に轟くの猛発を導きしときは果して如何。

 

 源義経は頼朝に対する数度の不平を抑損せしに非ずや、機至りて又忍ぶ可からず、院宣を乞ふて頼朝征討を行へり。不幸にして彼は死せり、彼死して源氏は隆盛を極めたりと誰か謂ふ。

 

観軽芸之感(冒険種類)

 此夕暮栃木町不動尊境内の軽芸を見る。

 冒険種豈に一つにして止まらんや。世人がいやしくも大事を為さんとせば必ず冒険を行はざる可からず。

 ・三百年の太平を創成せし徳川家康の事業も冒険なり。

 ・欧州を震動せしめしナポレオンの事業も冒険なり。

其学者に於ては身命を犠牲として学理を考究す可く、商売に於ては一転富否定まらざるの危機を履まずんば亦巨万の富を博するを得んや。

  是即ち冒険なり。 

 而して亦軽芸の如き冒険の一種あり。彼軽芸師なるものは其身命を羽毛の如く軽んずるに非ずや。身命既に軽し、又何か軽からざらんや。然れども此の冒険は下等なるものなり。

 

 何となれば彼は身命の重きを知らざるなり。否実に其身命は決して重からざるなり。只だ衣食の為めに其身命を軽んずるなり。

 故に彼等は胆ありと賞す可からず。

何となれば彼等は胆なくして而して只だ衣食の餓鬼なり。

 

 余は青年学生間に於て屡々此の種の冒険を見るを悲しむなり。

彼等は名誉(吾人は是を名誉とせず、只だ彼等が自称のみ)の奴隷なり、餓鬼なり、後来の遠望なきなり、ありても空望なり。

 余輩が書生間の所謂冒険家の内に冒険家を見ず。

 

次の学長に対する批判も厳しい。

 

明治二十九年

九月十五日

学長古市公威

 午後は学長の面会ある筈なれば一時より第一講義室に至る。程なく学長は教授助教授を従へて来り、一場の注意をなせり。其要に曰く、

 

1、諸君は今日より社会に出でたる後の境遇を覚悟して種々注意せざるべからず。

2、諸君は実業にして決して悠々として一個自身のみにて学理に従事すること少くして、多人数と合体して事を為すものなれば、必ず其点に注意せざるべからず。

3、工学者は行為の奇警を避けざるべからず。

4、工学者は質素なるを要す。

 諸君は他日社会に出づれば十中八九は会社或は官途に就きて、始めは先輩の指揮を受けざるべからず。殊に会社の如きに至りては質素を旨とするものなれば、今より之を慣習となすを要す。

5、工学者は脳力の必要勿論なりと雖も、体力の必要なること他の学科の比に非ず。体育忽にすべからず。

6、高利貸の厄に罹らざる様注意すべし。

7、出身学校の別によりて一団体を作るが如きことなくして、能く全学生の結合一致を保つべし。

等にして、其他二三の注意ありたるも別に新しき事にも非ず。

(2)の注意の如きは夫れ然り、夫豈然らむやと謂はざるを得ず。工科にても土木の如きは然らむも、電気の如き、化学の如き、冶金の如きに至りては必ずしも此の注意を順奉するの必要なきなり。

 

 大学は学長の謂ふ如き低度の理想に依るものなりや。余は疑はざるを得ず。

如何にも強ちに学者風なるを要せずと雖も、学者風を避くる必要もあるまじ。

 

 余は今学長が演説せし一言一句を誤りなく記憶せざるも、其場に於て余が理解せし

彼の趣旨によれば、彼の理想の低きに驚かざるを得ず。其他の注意は至極尤もと謂はざるを得ず。

 

 彼は最後に「謙遜ならざるべからず。大学とは左程エラキ所に非ずと考へざるべからず。暑暇の工場廻りなどのときに、会社などにて自分に気に入らぬ事などあれば無礼なりなど怒り、恰も自分は会社の工場を見るの権利あるものの如き行為あり。

 

 之れ大なる誤なり。工場は好意を以て工場を吾人に開放し呉るるものにして決して大学には何の権利もなきなれば謹まざるべからず。」と、道理なり。

 

 終りて電気教室に来り中野教授、渡辺助教授の談話ありて帰る。

 

十二月三十一日

 今日写真を台紙に貼りしのみにて外になさず。

 

 今日は明治二十九年の最終日なり。例に依りて余が感を記し置かむ乎。

 

 余幾度か勉強せむと欲して為さず。去年の今日の日記を見れば心に愧然たるものあるなり。今年の始めに当りて下宿して花見寺に失敗し、其覚悟を実行すること能はざりき。大学に入りての覚悟は今更に謂ふまじ。何となれば恥の上塗りを為すに外ならざればなり。

 然れども余が自ら信ずる所あるは依然として動かざるなり。余と雖も全然計画を実行せざるに非ず、他日に於て此の実行を積まば、如何でか人後に落つるあらむ。

 

 試に余が希望を述べむか。余に於て最も多変化せしは其希望ならむ。余や元来空望を好まず。一畝の田、一歩の林、故山に帰臥して父老と相親しむは余が去年の宿題なりき。今は早や其心なきなり。

 

 否無きに非ず、其望みを達するの前に、如何にしても大々的事業を為さむと欲するの念強くして、遂に故山に帰るの期を想ふに及ばざるなり。其大々的事業とは果して何なりやは今に於て謂ふを得ざるなり。

 

 余が今年に至りて最も必要を感じたるは交友の道なりとす。故に本学年に至りて余が多く弘く交はりしは此の晃南日記の証明する所なり。これ果して善か悪か、参考として後日の為めにす。

 

 多く弘く交はりたりとて余は旧友の深交あるものを疎にしたることなし。試みに晃南日記を身よ、如何に旧友故知と相来往せしやを。

 

 浪平は工科大学一年次でまさかの落第、そのショックから房州に17日間逃避行をした後やっと帰郷、そこでもあらためてひしひしと孤独感に苛まれます。 

こうしたことがその後の学業並びに事業の成功のバネに。

 

明治三十年

七月二十六日

 午前五時発の列車にて帰郷す。慈母よりは諌められ、兄上帰り玉ひて怒られて余は一言もなし。

 

晃 南 死

 嗚呼晃南生、此の晃南日記の筆者は明治三十年七月二十六日を以て死せり。

 

 世は遂に此の一痴漢を見ざるべし。彼は一個の見識を以て世に処したるも、一朝事は心と違ひ不幸蹉跌の非運に会し、万事皆な非にして、彼の見識たり本領たる点を捨てざるべからざるに至れり。

 好意を以て彼を待ちし一家すら彼を反目するに至りぬ。

 彼は木石に非ず、何ぞ一言の弁解なからむや。然りと雖も之を謂ふを欲せざるなり。否彼は其言の寧ろ信ぜられざるを知ればなり。

 

 晃南生は永く眠りたり。又何の日か彼が天真爛漫たる行為を見む。何れの年か彼の酒々落々たる言行に接せむ。

 

九月

 余の脳は詩人的なり。多感詩人の脳漿なり。余が暑中休暇中に愛読幾多の美文は決して余が科学に疲れたる為めに読むに非ず、余の心中に於て盛に同情を喚起するものあるによるなり。

 余の脳は科学的なり。実用的には縁遠き方なり。社交は余の最も拙なる所にして世事は余の暗き処、

 ・去れば余は官吏となりて高きを望まず、

 ・所謂実業家となりて大なるを願はず、

 ・工学者として大事業家たるを望まず、 

 ・只だ学者としての本分を尽し終らむことを願ふなり。

 

 其他に於ては薪水の費を得る為めに働かむのみ。何をか学者の本分と云ふ。余はこれを謂はざるべし。

 只だ 電工科は学者の本分を尽す好植民地なりと答へむのみ。

 

明治三十一年

十二月三十一日

歳 暮 感

 例によりて歳暮感を記せしめよ。

 本年は余に取りては割合に幸福なる年なりき。何によりて幸福と謂ふ、他なし、自己の本分を尽すに於て少しも疚しき事なく、而巳ならず学生としての本分に於て、最も正路的の道行を為したりと信ずればなり。

 

 本年の前半は晃南生の暗黒時代の一部にして、此の日記のこれを証するなきも、学生の本分を尽したるに於て後半に於けると差なきを保するなり。

 

 五月の頃に至りて余は玉突きを始めたり。爾来余の運動の大部は此の戯によりて為されたりと雖も、ローンテニス界に於ける声価は全く余の独占なりき。

 

 前半期に於ける学術上の効果は一々枚挙すべからざるも、若し其一班を知らむと欲せば余の雑録を見よ。余は其巻に於て余が得たる知識の幾分を留めたりと信ずるなり。雑録総ページ数二百余、包蓄するものは工業冶金術あり、機械製造あり、電気測定法あり、以て幾多の知識を収め得たりと信ずるなり。

 

   学年試業の成績に至りては最始に余が望みし如くならざりしも、余は自ら信ずる点に於て充分なる結果と信ずるなり。

 

 受験総数二十四名にして登第者僅に十四名なりき。而して余は其第七位に席を占めたり。固より優秀には非ざるも 余は自ら満足するに躊躇せざるなり。

 

 暑中休暇中には修学旅行として沖縄丸に乗り組み、噴火湾及千島国後海峡の海底電線工事に従事したり。これ余が最も有益に且つ愉快に感じたりし処なり。

 

 而して若し後来余にして海底線工事に従事することあらば、余は固き自信を以て其工事を完成し得るを信ずるに至りたるは最も満足とする処なり。

 

 本年の後半は晃南日記之を明にするを以て再びせざるも、其金英館上の苦戦は歳暮の感を記するに当りて、余の最も得意として喜ぶ処なり。

 

 人生の希望なるものは年々歳々変化するものなりとかや。而して其変化の最も多き時代を書生時代となす。

 

 余は毎歳暮に其希望を記するを例とせり。今茲に本年に於て盛なる希望を述べしめよ。

 

・余は本年に至りて旅行をなし、諸所の工場を見物して我国工業の幼稚なるに驚き、又海外雑誌を読みては欧米諸国の盛大なる規模に驚き、愈よ業成りて社会に出づるの日に、一小電気会社の番人となるは欲せざるに至れり。

 我国の工業振はざれば、之を振はしむるは吾人の任務にして、決して吾人は会社の番人を以て終る可きものに非ざるを深く感じたり。

 

・然らば如何にして其目的を達するやと云ふに至りては、余は総てのものを犠牲として、米国に渡りて彼の地の大電気会社に入り、如何なる辛苦に遭遇するも奮励一番して彼地に根拠を固め、都合によりては一生を彼の地に終りて業を完くするも辞せざるなり。

 

 之れ本年余が胸中に盛に計画せられたる設計なりき。

 

・要するに余は日本の小なるにイヤになり、世界の舞台に於て余の力を振はむことを欲し始めたるなり。

 

・余一身の外に於て重大なりし出来事は 兄嫁の離縁(注;当時の家族制度維持のための強制離婚)となりしこと。

・満舞及陳平の病気は悲しむべきことにして、

・大澤叔父の病死は殊に悲しむべくして然かも感ぜざるは如何にぞや。

・間中伯父も遂に斃れ、

・敏次郎は北海道より新嫁と称するものを携へて上京せしは寧ろ滑稽に類し、

・五十嵐伯父は宣氏の監督として上京して下宿屋を開きしなど又一笑の現象なり。