小平浪平の生涯日記
小平浪平(以下浪平と呼ぶ)は 栃木市都賀町合戦場に生まれ、(株)日立製作所の創業社長である。
浪平は高等小学校の高学年から昭和26年10月に77歳で亡くなるまで日記を綴っていた。生涯の日記の冊数は総数70数冊にも及ぶ。
ところが昭和20年3月10日のB29による「東京大空襲」で三組町の自宅が全焼。その落胆振りは「身辺雑記」の「戦災」欄に
『火災に遇ひて最も残念に思いたるは余の日記が全部焼けたる事なり。日記は十四、五歳の頃より継続して今日に至りたるものにて、現に第六十八巻を記載しおるものにして余の一生の経路が明らかにせらるるなるものなのに、之を亡失しては最早日記を書く勇気も無く、極言すれば仕事をするも厭になりたりと思いたるに、幸いにして倉庫の一部が残り、日記は亡失を免れ非常に喜び勇気百倍の感ありたり。
只 倉庫に入れず書斎に置きたる第六十六巻及び六十五巻の二冊を焼きたるは残念なり。焼残りたる日記は小石川道場の倉庫に格納し置き、去る六月十日之を整理したるに高等学校時代のもの、和本にて筆書きしたるもの数冊見当たらず、或いは片町(注;東片町)の倉庫にでもあるかと共方も探したるも遂に見当たらず甚だ残念なり。何処か意外なる処にでも混入せられるものか或いは盗まれたるか。』(昭和22年秋記)
一般に公開されている日記等の記録は 学生時代の6年半に亘る自らを”晃南生”と呼んだ「晃南日記」と終戦間際から子孫のためにと記録した「身辺雑記」(注;非売品)のみである。
「晃南日記」の数冊 焼失・亡失しているのは残念であるが 浪平の青雲の志を読み解くには影響を与えるものでは無い。
尚 「晃南生」と自称したのは、生まれ育った栃木市が日光連山の南に位置しそこの生徒だったと意味と思う。それとトップページのある戯画は自ら描いた自画像である。
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