2、養子縁組問題
明治24年に民法典の編纂問題が起きます。中でも家族法は社会の構成に関わるので、大きな議論を呼んだようです。
ボワソナードによるフランス流の原案に対して穂積八束は「民法出でて忠孝亡ぶ」と批判しました。
家族を支配する戸主(家長)権、家督という観念、隠居・養子制度など日本の伝統的家族制度のあり方が問われました。
西洋の“養子”は子の養育に重点があり、日本の“養子”は“家”の存続に重点あったわけです。
浪平にも次男なり故、個人の自主独立という観念に対立する養子縁組問題が重くのしかかります。
(注;具体的には母チヨの長姉の嫁ぎ先五十嵐家(医者)への縁組問題)
明治二十七年
十二月二十九日
大掃除をなす。
嗚呼我れ何ぞ夫れ医学に縁深きや。前きには二回まで其養子たらむ事を勧められ、今日又人ありて余に任生五十嵐の養子足らんを勧むるものあり。然りと雖も余豈に之に従はんや。
説者喃々として彼の富を説きて止まず、好縁失ふ可からずと。嗚呼世人は富を以て最終の目的すと雖も、余豈に絶対的に之に首肯するを得んや。富あれば其意の如くならざるものなしと、夫れ或は然らん。以て人を従はしむ可く、以て美食に飽く可く、以て暖衣を得べく、以て美女を擁す可し。然りと雖も男子の望む所は豈に区々たる安楽のみならんや。又別に心に期する所なくして可ならんや。余不肖と雖も胸中又期する処あり、何ぞ其言に従はんや。
明治二十八年
一月六日
兄栃木より帰る。この夜余は一種の夢想を起したり。余常に一家の有様を思ひ又自身の強健ならざるを思へば、時に天を仰いで無限の嘆声を発せずむばあらず。我れ若し不幸にして業の成らざる時は如何に、母君は定めし為す所を知らざる可し。
我が家興らざれば如何に、父上地下に瞑せざる可し。我業も亦成らざる可し。憶ほて此に至れば転た嗟嘆に勝へざるなり。人ありて他家に養子たるを勧むるあり。余頑迷にして之に従ふ能はず。此に至りて我が前途を如何にすべき、我れフランクリンに顧みて愧ぢざるを得ざるなり。
余熟々惟ふに、若し家立たざれば人に計りて生命保険に入り、之を抵当として学資を借り、若し保険の申込を謝絶せらるれば、其時こそ已むを得ず医ともならむなど思ひ続くれば夢も結ばず。
一月七日
五十嵐伯母昨日の通知に今日来るとの事なれば待ちしに、十時半頃独り徒歩にて来り種々依頼せらる。嗚呼赤誠は人を動かすと、我れ之を伯母に見る。此の高恩をは我れ之を肝に銘ぜん。
一月十三日
慈 母 上 京
早朝兄より慈母上京すとの報に接して喜ばしく、午前は読書に暮して、午後尾崎に誘はれて本願寺に清国の捕虜(注;日清戦争)を見んとて至りしに、皆な家に籠りて出でず。因りて浅草公園を散歩して尾崎氏に別れ、浅草代地に老人を訪ひ、夫れより上野停車場に至りて待つこと三四十分にして汽車は着きぬ。慈母は来りぬ。
打ち喜びて共に相語りて、徒歩して間中氏に着きしは五時過なりき。七時頃別れを告げて帰寮す。慈母の言に接して余輩の心頭に一波瀾を与へたるは例の養子の一件なり。思へば男子又涙なき能はざるなり。然れども余は如何で此の慈母を捨てて他家に養はるるを好まんや。
一月十四日
夜間中氏に至りて母を訪ひしに他出にて不在、暫く待ちて八時半頃帰り来る。十時帰寮す。母上の曰く、養子の件は思ひ止まりたれば心を安んじて可なりと。