浪平は明治十八年六月(十二歳)淑愼学舎(合戦場小学校)を退校して、父惣八の命令で栃木小学校に転校する。そして栃木協立英学校が明治二十年に開校したため 補修のため入学している。
小学校の始業前の朝六時半前頃授業開始。従って冬季は真暗闇の5時半頃自宅を出て10分も歩くと右側の「首斬場」を通過せねばならない。この首斬場は江戸時代の罪人の公開処刑場である。今でこそ周辺には住宅地が立ち並んでいるが それでも車がすれ違うのに苦労する小径。当時は土葬、腐敗した生物などから生じた黄リン(白リン)が空気中で酸化する際の青白い光の燐光(りんこう)を視て驚き、雉か何かが飛び出して胆をつぶしながら通学したのであろう。
今でも法務省管轄の広さ約600坪の空き地になっており「合葬の碑」が建立されている。
悲惨な境涯に生まれた一人の女が大逆罪に問われ栃木女囚刑務所で自死する。一瞬の花火の様に燃え上がった短い命だった。金子文子と言う。虚無の中に埋まれた女の一生を蘇らせる瀬戸内晴美(寂聴)の「余白の春」の主人公でる。
瀬戸内晴美は 昭和47年1月現地墓地を訪ねている。
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1972年1月17日の朝、私は小林常二郎氏と、同乗した車を栃木へ走らせていた。
小林氏は、私には未知の方であったが、私が週刊誌に出した金子文子について知らしてほしいという記事を見られて、お手紙を下さった方であった。
「金子丈子の死去はもう四十余年の昔になりますので記憶も大分薄れましたが、何かの参考になれば辛甚と御知らせします。
私の十七、八歳位の丁度、六~七月頃か、当時の栃木にはまだ自勘車はありませんでした。私は当時栃木で俥宿をしていた家の業を手伝って居たので計らずも知った訳でした。
合戦場(かつせんば)街道の「二つ橋」の先までと、俥を何台も依頼され、他の多勢の俥夫と一緒に、晃陽館(旅館)へ集合したのは暁前だったので、こんな時刻に、こんなにたくさんの俥を呼ぶのはどういうわけかと不審な想いに駆られたのは覚えています。
現場は栃木の北方で下都賀郡家中村との境界近く、日光、鹿沼街道から栃木より日光への進行方向に向って約五十米くらい左へ入った所でした。
そこが刑務所墓地と知ったのは、後のことですが、砂地のところで、私も掘るのを手伝った覚えがあります。掘り進むと砂地にもう水が滲み出てきました。まだ僅かに棺の一部しか地中からあらわれない時、赤いギラギラした水が出てきて、血か、とぎょっとしました。それを見て、ルパシカを着た長髪の人達や、馬島僴さん、布施辰治さん達(後で知った)が色めき立ってきました。
棺の蓋を開いた時、喉のあたりが変だったのでしょう。大分慎重に見て居られましたが納得されたのか、問題にはならなかったようです。
ギラギラした赤い水は血液ではなく、防腐剤が水に溶解したものと判明しました。
掘り出された棺を運搬する者がなく、私は栃木刑務所へ荷車を取りに行ったと思います。自転車は刑務所の看守さんのものだったでしょうか。刑務所では簡単に荷車を出してくれました。万町三丁目角の交番の前も通る時わけを話すと、何ともとがめられず通してくれました。夜の白々明ける頃、荷車に棺をのせて当時の今泉街道の火葬場に運ばれ、茶毘に付された訳です。
以上が私の記憶にある当時の情況です-