出所;合戦場郵便局より提供
写真は浪平生家前の合戦場郵便局。街道の先に生誕地碑が見える。
浪平の生家の合戦場の住所は 平成の大合併で「栃木市都賀町合戦場」となったが戦前は「下都賀郡家中村大字合戦場」であった。
しかしながらこの地は数百メータ歩けば栃木市であり、浪平が兄儀平宛てに出した住所は
となっており地理的、文化的、日常生活においても合戦場住民は栃木町(市)住民と思っていた節がある。
「合戦場」と言う名前の由来はこのエリアで合戦があったからである。
合戦の相手は
・現在の宇都宮市に城を構えていた宇都宮下野守忠綱と現在の栃木市に城を構えていた皆川宮内少輔宗成との戦である。小平家は当時皆川家臣団であったと伝えられている。
・合戦の時期は戦国時代の大永三年(1523年)。通称「川原田合戦」と言われている。
・合戦の場所は 現在の東武合戦場駅の西側の標茅ヶ原(しめじがはら)あたり。
・戦況は皆川軍の完勝であったが 皆川城主宗成は敵の流れ矢に当って壮烈な戦死。
両軍戦死者を弔うために十二間四面、高さ四間の枡形の塚を築く。「桝塚」と言う地名が今尚残っている。場所は例幣使街道沿い東側、浪平生家の北側約500Mのところにある。
例幣使は、正保四年(1647年)参議従三位近衛中将藤原朝臣実豊が日光廟へ奉幣(贈り物)してから以降毎年東照宮の四月の大祭(4/17に開催)に朝廷から勅使がたち(4月1日出発)、中山道の倉賀野宿(現高崎市)からは例幣使街道(13の宿)を経て日光着。帰りは日光街道から淺草観音に詣で 東海道を経て京に戻る(全行程29泊30日)。現在の栃木市には富田宿、栃木宿、合戦場宿、金崎宿、楡木(にれぎ)宿があった。例幣使は慶応3年まで実に221年間続いた。人足を含めて総勢約300人の行列だったため各宿は「揺すられたかられ」、今で云えば優越的地位の乱用で 地元では傍迷惑の印象が残っている。
「川原田合戦」のあった標茅ヶ原(しめじがはら)は栃木市内を流れる巴波川の水源地帯で「湿地ヶ原」が平安時代の雅字によって「標茅ヶ原」と書かれるようになった。
平安朝時代末期の歌人源俊頼朝臣は 京から東国に立寄った際
・秋来ればしめじが原に咲きそむる
萩のはつえにするが鳴くなり
又 藤原光俊朝臣は百首歌合に
・下野やしめじが原の草かくれ
さしもはなしにもゆる蛍そ
と歌を詠んでいる。
浪平は帰省中 友人が遊びに来ると散歩がてら 標茅ヶ原(しめじがはら)を案内。当時のこの一帯は緑豊かな蛍飛び交う湿原であったのであろう。現在は宅地造成やら近くのビール工場の揚水か 当時の面影は全くない。
合戦の要旨;現在の宇都宮市に城を構えていた宇都宮下野守忠綱と現在の栃木市に城を構えていた皆川宮内少輔宗成との戦である。小平家は当時皆川家臣団であったと伝えられている。
・合戦時期;戦国時代の大永三年(1523年)。通称「川原田合戦」と言われている。
・合戦場所;現在の東武合戦場駅の西側の標茅ヶ原(しめじがはら)あたり。
・戦況は皆川軍の完勝であったが 皆川城主宗成は敵の流れ矢に当って壮烈な戦死。
両軍戦死者を弔うために十二間四面、高さ四間の枡形の塚を築く。「桝塚」と言う地名が今尚残っている。場所は例幣使街道沿い東側、浪平生家の北側約500Mのところにある。
「川原田合戦」のあった標茅ヶ原(しめじがはら)は栃木市内を流れる巴波川の水源地帯で「湿地ヶ原」が平安時代の雅字によって「標茅ヶ原」と書かれるようになった。
(注)メッセージfrom 八島守様アドバイスより:
上記に「標茅ヶ原(しめじがはら)は栃木市内を流れる巴波川の水源地帯
平安朝時代末期の歌人源俊頼朝臣は 京から東国に立寄った際
・秋来ればしめじが原に咲きそむる
萩のはつえにするが鳴くなり
又 藤原光俊朝臣は百首歌合に
・下野やしめじが原の草かくれ
さしもはなしにもゆる蛍そ
と歌を詠んでいる。
浪平は帰省中 友人が遊びに来ると散歩がてら 標茅ヶ原(しめじがはら)を案内。当時のこの一帯は緑豊かな蛍飛び交う湿原であったのであろう。現在は宅地造成やら近くのビール工場の揚水か 当時の面影は全くない。
このエリアが巴波川の源流。左の写真は湧水の一つ「白地沼」だったが 吹上にサントリー工場が出来た後 沼は干されたと土地の古老は言う。
「白地沼」の名前の由来は 大永3年(1523年)の「川原田合戦」時、戦死者の血で沼が赤く染まる程の修羅場となったので「修羅地沼」これが転じて
「白血沼」→「白地沼」らしい。
左の写真は夏。解説表示板がなければ単なる雑木と雑草地。窪地でその昔 蛍飛び交う沼があったとは思えない。
成り立ち |
従って 兄儀平の小学校卒業証は明治10年なので「杤木県」、浪平は明治13年なので「栃木県」に変わっている。 |
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(出所;https://www.okjiten.jp/kanji2131.html)
・「十千木」説; 旭町に鎮座する「神明宮」社殿の屋根にある8本の千木と鰹木が遠くから見ると10本に見えたことから神社辺りを「十千木」と呼称していた。千が十集まると万になるので「杤」と言う国字がつくられた。
・「トチノキ」説;トチノキが沢山生えていた。
・「崩壊地名」説;巴波川が氾濫して千切れてしまったと言う地形から。
・「遠津木(とおつき)」説;「古事記」に登場し上毛野氏(かみつけうじ)や下毛野氏(しもつけうじ)の始祖とされる豊城入彦命が「木の国」(栃木県)と「紀の国」(和歌山県)を区別するために命名。「遠津」とは豊城入彦命の母親の名前。
(出所;「栃木県誕生の系譜」より)