下野国には
・徳川の武将だった譜代大名は宇都宮藩(7万石)、壬生藩(3万石)、烏山藩(3万石)、足利藩(1.1万石)、吹上藩(1万石)、佐野藩(1.6万石)、高徳藩(1.1万石)の7藩。
・外様大名としては大田原藩(1.1万石)、黒羽藩(1.8万石)、喜連川藩(0.5万石)の3藩。合計10藩、皆小藩である。
一方 下野国には古河、下妻、秋田、水戸、会津などの他国の藩領が点在し、又 多数の旗本知行領があって錯綜としていた。
この理由として江戸に近いロケーションが下野国を恩賞の地にし易かったことと徳川家の聖地日光があったことにより幕府の直轄地(天領)が大きかった。
事実、旧栃木町は幕府の直轄地(天領)であったし、合戦場のあった下都賀郡の大半が下総の関宿藩の知行地。小平家は関宿藩の知行地の管理を委託されていた。
1871年(明治4年)は廃藩置県の布告により府県制に。当初全国は「三府302県」からその後「三府72県」へ。
これに対応して栃木県は二県制。
即ち
・栃木県;日光県、壬生県、吹上県、佐野県、館林県、足利県の6県合併。
これに加えて都賀・寒川・安蘇・足利・梁田の5郡と上野国の新田・山田・邑楽の3郡。
合計8郡。県庁を栃木町に設置。
・宇都宮県;宇都宮県、烏山県、黒羽県、大田原県、茂木県の5県合併。
これに加えて河内・芳賀・塩谷・那須の4郡。
その後1873年(明治6年)栃木県と宇都宮県が合併し「栃木県」となり、
更に1876年(明治9年)旧館林県下の山田・邑楽・新田の3郡が群馬県に編入され、現在の『栃木県』が確定。
県庁は栃木町に。しかしながら3代目栃木県令となった剛腕・辣腕三島通庸(みちつね)は赴任後3ヶ月で宇都宮町に県庁を移転してしまった。
移転させた理由は
・福島県令と兼務であったこと。
・栃木町が自由民権運動の盛んであったこと。
・南の3郡(新田郡・邑楽郡・山田郡)が群馬県に編入されていたこと。
これにより地政学的にも、宇都宮町が県の中央になったこと。
・宇都宮の豪商達が誘致熱心で、金銭面でも援助したこと。
・初代と2代目県令は鍋島藩閥あり、三島は薩摩藩出身。中央人脈と太いパイプを持っていたこと。
いずれにせよ毀誉褒貶の三島であったが、いい意味で幕末・明治維新を駆け抜けた薩摩隼人であった。
更に詳しくは「ウキペディア」及び「栃木県誕生の系譜」を参照。
明治新政府は廃藩置県と平行して「学制」頒布と同時に「学区取締役」を任命し「学区制度」の整備を急いだ。1872年(明治5年)、文部省は、西洋をモデルに近代学校制度について総括的に教育法規「学制」を頒布。これによると
・全国を「8大学区」
・各大学区を「32中学区」
・各中学区を「256小学区」
これによると全国で8つの大学、256の中学校、53,760の小学校を設立する計画であったが、経済力の乏しい地方村部落では実現無理であった。
この卒業之証は浪平の兄儀平の下等小学校淑愼学校(現;合戦場小学校)1年生(八級)時のものである。
・「第一学区」とは東京府を中心とする関東地方一府十三県。一府は東京府、十三県は神奈川県、埼玉県、入間県、木更津県、足柄県、印旛県、新治県、茨城県、群馬県、栃木県、宇都宮県、山梨県、静岡県である。
・二県体制時の旧栃木県は「中学区」は第三十八、三十九、四十番の三つの中学区が割り当てられ、淑愼学校は第三十八中学区の中の三十四番目の小学校となった(この第三十八中学区の小学校は全部で616校も設立される予定であった)。
・尚「訓導」とは小学校の先生を言う。
・そして小学校卒業時は 616校あった小学校は整理・統合され、淑愼学校は二十八番目の小学区となった。
・学校名も「簡易小学校」となり、又住所も「下都賀寒川郡」と変更。
・卒業日も「四月三十日」
・中学卒業時は「小学中等科」となり小学区も「二十三」番目に変更。
・卒業月は七月となっている。
この様に明治初期の学校制度は試行錯誤しながら「学区取締役」を任命し体制づくりをした。
旧栃木県の学区取締役(明治6年任命) | |||
担当区分 | 氏 名 | 住 所 | 族籍職名 |
第一区 | 高田俊貞 | 都賀郡栃木町 | 平民 |
押山常三郎 | 都賀郡大森町 | 平民戸長 | |
第二区 | 安生順四郎 | 都賀郡久野村 | 平民戸長 |
山口四郎左衛門 | 都賀郡鹿沼宿 | 平民戸長 | |
第三区 | 若井平世 | 都賀郡壬生町 | 士族 |
𠮷光寺梶郎 | 安蘇郡塩沢村 | 平民 | |
第四区 | 山士家左倂 | 都賀郡大前村 | 平民 |
大島省三郎 | 安蘇郡古江村 | 平民 | |
第五区 | 石井郡三郎 | 安蘇郡小中村 | 平民 |
松村信篤 | 安蘇郡小屋町 | 平民 | |
第六区 | 木村半兵衛 | 足利郡小俣村 | 平民戸長 |
足立至徳 | 足利郡足利町 | 士族 |
出所(「三代目木村半兵衛の日誌」足利市教育委員会)
(読売新聞栃木版2020/10/6)
「小平浪平翁記念会(大川吉弘会長)は10月5日、 小平が実家などに送った書簡類1,110通と図書類54 冊を同市に寄贈した。
小平は、現在の同市立合 戦場小学校などを経て東京 帝大を卒業。秋田県の小坂 鉱山、茨城県の日立鉱山な どで働き、1910年に同 県日立市で日立製作所の基 となる工場を建てて創業し た。同社では、1947年まで社 長を務めた。書簡類は、明治中期の学 生時代以降のもので、多く は実家の兄に宛てたもの。小平は日立鉱山に勤務し ていた時代に国産初の5馬 力電動機を製作。会社に工場の建設を嘆願して認め られ、これが日立製作所の 創業とされる。
兄宛ての手 紙の中には、この際の金策 などのいきさつについて触 れているものもあるとい う。 これらの書簡類は、読売 新聞栃木県版(2018年 3月14日付)で前橋市の古 書店から発見されたと報じ ており、小平が小坂鉱山時代に海外へ渡航ずることを 考えていたことや、日立製 作所創業後、経営が順調な ことを兄宛てに記していた ことが分かっていた。その 後、記念会が前橋市の古書店から書簡類を買い取 り、記念会会員から寄せら れた書簡も含めて市に寄贈 した。
10月5日は小平の命日に当 たり、寄贈した大川会長は 「モノづくりのパイオニアが栃 木市から出たことを全国 に広めてほしい」などと市 に要望した。大川秀子市長 は「日立製作所や日立市と も連携して小平の功績を 伝えていきたい」と話して いた。
追記;この書簡の栃木市寄贈により 日立の社史にはない 浪平の小坂鉱山入社、日立鉱山入社、日立創業の背景、特に昭和初期の不況時の資金繰りの様子が判明する。