15、建設中の溶鉱炉崩壊

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  41年2月7日井上公は鴻江銀行原田理事を随行し来訪された。3月に大雄院精錬所を起工するのでその下見に来た。資金を出してよいかの判断を仰ぐため。

 

  41年6月23日午後1時頃大雄院に新築中の溶鉱炉上屋倒壊し死傷者6名を出す

 

  418月19日電気鉄道開通し10月27日運転開始。

(也笑夫人はトロッコで助川より大雄院に移住、井上公は神輿に乗って入山)

 

  41111日大雄院精錬所の火入れ式29日溶鉱炉火入れ着手。

 

  これを見届けるかのように房之助の厳父庄三郎が永眠した。房之助は浪平と同じような運命です、母親に大変な孝養を尽くしました。

  423月井上公と原田理事来訪された。

 

  4411月井上公と原田理事された3度目の来訪。日立の創業を見に来た。

 <也笑夫人の想い出より>
助川に住みましてのある日、大暴風が御座いまして折角半ば出来上がった精錬所が倒れ、怪我人死人
も有りまして浪平が大心配して右往左往の有様、あまり怪我人死人などと耳に致しませんでした私は、唯
うろうろと致すばかりで御座いました。その後建ちましたのが現在のコンクリート建と存じます。
 又気遣われた怪我人も無く、東洋一を誇る大煙突も出来上がり、皆様喜びに溢れて居りました。
それから次々と新しい建設も成り、遂には日立製作所が設立されるに至りました。これに就ましては、
「我が国で使う機械は吾等の手で造らねばならない。日本人は決して外国人に劣る者では無い。
従って機械でも出来ぬのでは無く 造ろうとしないのだ」とよく申しておりました。
 こんな次第で製作所設立の段となりましても並大抵の苦労では無かったようで、ある夜中目を覚ますと
浪平が床の上正座して何事をか、ひどく考え込んで居たことが御座いました。私共では女は会社のことは聴く
な、口にするなと云うことを掟として居りましたから、知るよしも御座いませんが、その頃の辛苦は実に測り
知れないものと想像して居りました。
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