2、甥の小平知二の回顧録

 

  浪平の甥、即ち小平本家の戸主であった小平知二が『「生誕地」碑にことよせて』と題して 下記一文を残しています(1979年12月発行)。

 

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(前文略)私の現在住んでおる地、合戦場は徳川時代末期は現在の千葉県関宿(せきやど)の藩の知行地の一部でありました。藩主は久世大和守といって徳川幕府の老中職をつとめた人でありました。関宿という町は今こそ小さな町(注;現在の野田市関宿)となってしまいましたが、徳川時代には利根川の河港であり、関東平野の物産が水利を利用して此処に集まり、ここから更に江戸に送られ殷賑を極めた町でありました。徳川幕府にとっては至って重要な土地で、関東北部及び奥羽地方の大名を押さえる要衝でもあったとのことであります。この久世藩主は徳川幕府の晋代大名であり、大変な勢力のある大名でもあったようです。

 

 私の祖先は知行地で名主職を務めておった関係上始終関宿への呼び出しがあったようです。徳川末期に近づくとどこの藩でも財政困難になり、小作料の値上げが毎年のようにあったと思うのであります。特に嘉永年間、東京浦賀はペルリ一行の外国船が来た時などは、浦賀に行き大分活躍したことが当時の曾祖父の書いた日記に記されてあります。

 

 こういう時代ですから、私の曾祖父、祖父等は江戸との往来が頻繁でありました。現在私の家にある柱時計(注;下記写真左)は、明治の初め祖父が横浜で買ってきたものであり、今迄百年以上も動いております。私の家を飾るには最も相応しい古い記念物であります。

 

 鎖国の解除と共に、新しい計画が実行されたのであります。

 

 第一は私の祖父は幕末より明治の初期には色々なことをしました。地元では鉛丹作りをしました。鉛丹とは鉛を鍋の中で溶かし熱を加えて酸化させると赤い粉になります。これを船底に塗ると船速を遅らせる貝類も付着せず 又錆止めとなり、漆の中に入れると東照宮で使用する塗料になると聞いております。今でもわたくしの家に若干製品が残っています。

 

 然し原価を無視しての事業は二年足らずで失敗しました。浪平叔父も「父惣八がこれに成功したとしたら、家内中鉛毒にかかり絶滅しただろう」と話したこともありました。

 

 明治二十年頃のことを浪平叔父は終戦後「身辺雑記」の「父の思い出」に次のように書いております。

「父は事業に失敗したりと雖も、余が工業に志し、父の希望に副はむという考えを起こしたるは、此の為なりと思う時には、此の事業は決して失敗に非ず、日立製作所の種子とも見るを得べし。」と書いてあります。

 

又 祖父は福島県で石炭山に手を出し失敗し、祖父の死後私の父は十九歳ごろ福島裁判所から呼び出しがあり、この解決にはこりごりしたと言っておりました。

 

  こういう祖父でしたから、早くから子供(父および叔父)には、当時東京で流行の洋服などを着せたもので、その写真が今でも残っています(注;下記写真右)

 

 一言で言えば、早くから洋風へのあこがれを持っており、第一に実行したことは自分の子の東京留学であります。

 

 その第一陣は私の父でした。小学校をを終わると直ぐ東京の親戚に預けられ、その当時の日本は独逸に対する憧れがあったようで、独逸協会中学に入学させられました。これは独逸語を学んで医者にさせる目的でした。

 

 然し不幸にも私の父は同中学を経て第一高等中学校へ入学を果たしたものの、三年生の時に祖父惣八が死去し残された負債整理で帰郷せざるを得ぬ状態になり、青雲の志は達成しませんでした。私の父が東京に行った明治十七年頃は鉄道の便はなく、今の古河市迄歩いて行き、そこから川蒸汽船で利根川を下り、江戸川を経て隅田川の両国橋代地付近で下船したとのことです。

 

 然し叔父浪平が上京した明治二十一年頃は、鉄道は上野―宇都宮間が出来ておったようです。叔父も私の父同様親戚に預けられ、上級学校に入るため現在の予備校のような色々な塾に通い努力した結果、明治二十四年七月目出度く第一高等中学に入学(五年生高等中学最後のクラス)が出来ました。当時第一高等中学校の受験者は千二百名ぐらいあり、入学者は七十名で、矢張り学校に入るのは現在同様難しかったようです。

 (中略)

 このような小さな寒村から、而も貧乏家庭から斯様な人物が生まれたことは、本人の努力したことは勿論ですが、同時に周囲家族の者の温かい励ましがあったからと思うのです。特に私の祖母は夫の死亡した後、19歳の長男である私の父以下7人の子供を残されて、その生活は苦労の連続でありました。この辺り私の父の日記、又叔父の「晃南日記」にもよく書いてあります。

 

 叔父も終戦後に自分の子孫の為にと、家系図及び歴史を書きましたが、この日記や「身辺雑記」を見ると貧乏の中で自分の母、兄が如何に苦労して自分を学校にやったかが書いてあり、「身辺雑記」に「慈母」「兄の恩」と言う章があります。

 

 私も祖母からよく苦労話を聞かされました。叔父が学生時代、東京から帰ると学資を渡せねばならぬ。或る年末に山林の木を一家年越しの資金にと売って「やっと50円を手にした。これで家中お正月が越せる。」と楽しみにしておった時、たまたま叔父(浪平)が帰って来たが 困った顔も見せずその金を学資として叔父に渡したことを聞きました。しかしその後で家中で正月も越せぬと泣いたこともあったそうです。昔の50円の金高は大したものでありました。

 

 斯様に一人の優秀な人物が生まれると周囲が温かく育てることによって、始めて立派な人物が生まれるものと信じております。

 

 勿論叔父も生家の苦労を良く知っていて、夏休み等は帰宅せず北海道へ海底電線を敷設する仕事に行ったとかで、これも実習を兼ねたアルバイトの一種でしたが、帰宅した時は垢だらけの洋服を着て帰って来たと祖母から聞いたこともあります。これまた叔父は随分苦労したものと思います。又明治33年大学時代秋田県の両羽電気紡績㈱から電気事業幇助の功 少なからずとて慰労金50円也が贈られた表彰状が後になって見つかりましたが、これも亦アルバイトの一種であったものと思われます。 

 

 以上の通り我が家では一家一丸となって、叔父を励まし又本人もこれに応え良く努力したものと思うのであります。                    以上      (出典;『「小平浪平誕生地」碑にことよせて』より)

 

<惣八の15年祭>

 

  惣八の15年祭を自宅での集合写真(明治38年12月25日)。

 

 儀平・浪平は年末で多忙だったのであろう、中段真ん中に映っているのは儀平の妻ノブとその右側に浪平の妻ヤエが代理出席。

 

 家業も漸く安定してきた時期である。

小平知二履歴

 小平知二は浪平の甥。浪平の兄儀平の次男として明治40年2月誕生(長男遼吉は早逝)。大正13年3月(1924年)に県立栃木中学校卒業。昭和7年(1932年)慶応義塾大学理財科卒業後東京貯蓄銀行入行。昭和12年同社を退社して(株)日立製作所入社し本社で経理担当。昭和19年日立栃木工場設立と同時に転勤。昭和23年同工場総務部長を経て昭和38年退社し、(株)商産の社長(現;日立保険サービス)。地元においては家中村農地委員、富山村固定資産評価審査委員、家中村教育委員会委員長、栃木商工会議所議員を歴任。昭和59年(1984年9月23日)没。享年78歳。