グローバル化と「日立精神」

 

                     2023年1月10日

                       本多希久雄

 

<はじめに>

 

 「社友だより」(2022年11月1日 臨時号)に社長挨拶が掲載されていて、その簡にして要を得た文章によって日立の現況を知ることができる。

 

そこには業績が好調であること、“ものづくり”からデジタル技術に重点を移す事、今後デジタル技術と環境事業分野に注力するために海外事業の提携・買収を行った結果、海外従業員の数が、国内従業員のそれを上回ったことなどが記されている。

 

そうした状況を踏まえて「世界中の従業員が一体となって力を合わせる」ために「・・・日立の企業理念や「和・誠・開拓者精神」を共有」することが大切だ、とされている。

 

これを読んで、正直のところ、グローバル化と「日立精神」は、はたして結びつくのかと疑問を感ずると共に、あらためて手元の資料を基に、「日立精神」とは何か、と考えさせられた。

 

その結果小生は「日立精神」の何たるかをキチンと理解していなかったことに気付き不明を恥ずる次第となった。その経緯をご紹介し、願わくば社友諸兄のご批判を仰ぎたい。

 

(尚、「社友だより」の文章では「日立精神」という表現は注意深く避けられているようであるが、この文章では便宜上「日立精神」と呼ぶこととする)

 

1,社長挨拶の内容

 

(1)業績

 2021年度の連結売上収益は10兆2646億円、調整後営業利益は増収増益となり7382億円、そして当期純利益は過去最高となった。

 

(2)経営のコンセプト

 「リーマンショックの危機に際して「優れた自主技術と製品の開発を通じて社会に貢献する」という創業の精神に回帰し、社会イノベーション事業に注力してきた」

 

 社会・産業インフラをデジタル技術で革新するという目標を実現する為、Lumada(ルマーダ)を導入し、スイス・ABB社のパワーグリッド事業、米国のGlobalRogic社を買収した。

 

 社会イノベーション事業を展開するに当たっての日立の強みは次の4点である。

 

   ①5万社を超える顧客基盤

   ②これまでの日立のプロダクト 

   ③OT(制御・運用技術) 

   ④IT(情報技術)

 

(3)今後の経営方針

   ・「2024中期経営計画ではデジタル事業分野と環境事業分野を日立の成長領域と位置づける」

   ・「デジタル分野では、AIやデータ分析などの先進技術でお客さまのシステムやサービスを高度化し業務効率向上や新事       業創出などお客様のビジネスに新たな価値をもたらす」

   ・「環境事業分野では、パワーグリッド事業や鉄道システムの事業を中心に世界の脱炭素化をリードする」

   ・「一方で、脱炭素社会を実現するソリューションや先進のデジタル技術には、イノベーションが欠かせない。日立の競争力の源泉である研究開発への投資を増やしていく」

 

(5)グローバル化と「日立精神」

 そして最後に

   ・仲間が、諸先輩が大切に守ってきた日立の企業理念や「和・誠・開拓者精神」を共有し、想いを一つにするのはもちろんのこと、組織や地域、世代を超えて協力し合える組織づくりを進めます」

 

   ・確かに株主総会資料によれば、日立グループの従業員は約36万8千人、海外は約21万1千人、国内は約15万7千人とある。

 

こうした状況を踏まえた上で、この“決意表明”に接して、違った文化・風土に生まれ育った従業員が、日本の風土で形成された「日立の企業理念」や「和・誠・開拓者精神」を、はたして共有できるものか、ましてや、欧米の優良企業の風土に育った従業員であれば尚のこと、「日立精神」に馴染むのに困難があるのではないだろうかというのが、小生の率直な感想であった。

 

そこであらためて「日立精神」とは何かを理解すべく、高尾直三郎さんの文章を読んだところ、意外な事が分かった。

 

2,高尾さんの「日立精神」

 

昭和55年に本社人事教育部が作成した「新入社員に贈る」という冊子がある。小平浪平、高尾直三郎、馬場粂夫、倉田主税、駒井健一郎といった方々のメッセージが収録されている。その中に「新しく来る友へ」と題する高尾直三郎さんの文章には、「日立精神」の来歴、内容について詳しい記述がある。終戦後十年余を経過した昭和32年、高尾さん71才の時の文章である。

 

(1)「日立精神」の来歴

高尾さんによれば「日立精神」とは、小平翁の思想・実行のことを指し、本来以心伝心のものであったが、終戦後、世の中の価値観も変わり、新しい世代の時代となったので、後代につなげるために文章化して内容を明らかにしたいと考えたそうである。

そうして「日立精神」のベースにある考え方として次の点を挙げている。

 

・会社は単なる金儲けばかりやっているのではなく、世の中に役に立つことを目指しているということ

・大黒屋会談において小平さんは「水力発電をやるには、其の元となる水力電機を(ブラックボックスのまま輸入するのではなく、自ら)先に作らねばならぬ」との決意を表明したこと

・日立(即ち小平さん)のやり方がベーコンの実践哲学に則っていること

・小平さんは自己尊重の思想をもっていたこと

 

そして、こうした考えの上に醸成された「日立精神」を高尾さんは「和」と「誠」に集約し、更に最も重要なキーワードとして「開拓者精神」を編み出したと自負している。

 

 (2)「和」

 高尾さんは「和」について、日本人は家庭、友人、会社などとの和を求めることによって、喜びを感じ意欲が生まれるとする一方で、欧米は砂漠、北海、荒野の自然と闘うために協力一致がよく発達してきたと解説している。その実例として、当時北欧の小さな港町のサッカーチームに全日本の選手陣が翻弄されたことを挙げているのは微笑ましい。

 そして、日立は和から出た協力一致で、世界水準の重工業会社を作り、ここに世界的の和を心からエンジョイしたい、と言明するのを見ると、あたかも今のグローバル化を予見していたかの如くである。

 

 更に高尾さんは、「和を以て貴しとなす」という言葉に言及している。

 

 「中国に「君子は和して同せず 小人は同して和せず」という詞がある」

意見が有るが和のために差し控えるのは和とは云へぬ。小平さんは会議の時に各自の考へを十分発表し論議し、さうして論議を尽くして之が決定すれば、快く一同が其れに同意する事を常に奨励されました。此の事は欧米の方が上手であります

「・・・会社は色々の方面のいろいろの特徴と性格の人が互いに他人の特徴を認め、他人を尊重し手を握って、仲よく調和して行くことが必要となります。気の合った連中と気持ちの良い仕事をし度い事が和の原始思想ですが・・・虫のスカン人とも手を握って進むのが日立の和であります

 

 こうしてみると「和」は世界共通の精神ということができるようである。

 

尚 高尾さんは、「和を以て貴しとなす」という聖徳太子の思想について、「・・・外来思想中、和と云ふものが、太子の琴線を動かし民衆も亦之になびいたとみるべきであります」との見解を示している。

 

十七条憲法の一条と十七条は以下の通り。

 

「一に曰く 和を以て貴しと為し 忤(さから)ふこと無きを宗と為す 人皆党(たむろ・ともがら)有りて 亦達者(さとるもの)少し 是を以て或は君父に順はずして乍(たちまち)隣里に違ふ 然れども上和らぎ下睦びて 事を論(あげつらう)ふに諧(ととの)へば 即ち事理自ずから通ず 何事か成らざらむ」

 

「十七に曰く 夫れ事は独り断(さだ)む可らず 必ず衆(もろもろ)と与(とも)に宜しく論(あげつらう)べし 小事は是れ軽し 必ずしも衆(もろもろ)とす可らず 唯大事を論(あげつら)はんに逮(およ)びては 若し失(あやまる)有らんことを疑う 故に衆(もろもろ)と与(ともに)相弁(わきま)ふるときは 辞(こと)則ち理を得」

 

(3)「誠」

 高尾さんは、「誠」は東洋も西洋も人間社会の基本的道義であると言明している。小平さんの場合は道学者流のものではなく実践的な「誠」であった。これは「正直」と同義であって、小平さんは「正直」という詞をよく使ったそうである。

 

 「誠」についても、本来世界共通の価値観だという訳である。そして次のように述べている。

 

「特に重工業の製品は永く使へるものであるから、信用が第一である。技術も営業も経理も経営も、誠の努力を重ねる事によって達成した上達から来る信用が一番よいし、其の達成には更に其の上の進歩が約束されるので有ります」

 

4)「開拓者精神」

高尾さんが小平さんの思想・実行の中に見出した「開拓者精神」は、「和」「誠」と違ってむしろ日本に馴染みの薄いものであったようである。高尾さんはこれを「日立精神」のなかで最も重要な要素だとしている。

「開拓者精神」についての高尾さんの解説は以下の通り。

 

・「開拓者精神は英語の Frontier spiritあるいは Pioneer spirit の訳語であります」

・「日本には昔から開拓者精神の発露が乏しい。古い大陸関係の遣唐使は頭を下げて文化を貰いに行ったので、終戦後の盛んな米国出張と同様に開拓者精神と云ふものではない」

・「・・・小平さんが日立を作るに当たって、技術も営業も経理も管理も、自ら之をキリ開き 且つ之を後に伝へるという開拓者精神を根幹としたことは大卓見で有って、和と誠丈では村鍛冶か町工場の大きい位にしかなれなかったと思ふ

 

小平さんが「開拓者精神」を貫いた経営姿勢の真髄について、高尾さんは次のように続ける。まるで日立と東芝の今日のありようを予見していたかの如くである。

 

「小平さんは大学を卒業すると東京の仕事に目もくれず秋田県の小坂鉱山に飛び込んで久原さんの下で仕事をしました。久原鉱山は鹿角郡に在って、現在でもズイ分と山の中の辺境であります。鉱山の人々には元来開拓者精神が有りまして、人跡未踏の山奥で探鉱をしたり、思い切り坑道を掘る事がスキで有ります。小平さんの開拓者精神も其の環境と久原さんとに依って研きがかけられ、水力電気を開発したり、鉱山の動力を電化したり、中央では思いもよらぬことを開拓して居ります。

小坂を去って広島電燈、東京電燈等に従事しましたが其れらの仕事—当時は電燈が殆ど大部分—は自分の気持ちにピンと来ない、ソレで卒業後六年にして先にお話をした明治三十九年七月十五日の甲府猿橋の大黒屋会談となり、然も選んだのが当時一番困難とされて居った重工業を自らの手で開発しやうと決心して飛び込んだのが茨城県の山の中で有ります。

 

恐らく普通のやり方ならば其の決心と共に米国か英国かへ留学したのであります。日本の有名なる電機メーカーの六十五年史の中に在りますが、明治四十二年に其の会社が米国に在る世界一の電機メーカーと提携して其の技術を買ったイキサツの中に、当時其の会社は日本一の財閥が経営して居りましたが、其の財閥の大番頭さんは技術の買い入れに付て

「私の考えでは日本は大いに工業を起こさねばならぬが、其れにはまだ資本も頭もない。それだから西洋人に勧めて日本で工業をやらせる。日本人がやろうと西洋人がやろうと誰でもかまはぬ。工業をやりさえすれば日本に工業を植え付けることができる」

この人は此の当時日本で一か二かと云はれた実業界のエライ人で有ります。

 

其の人が日本の現状を見、世界の進歩と比較して日本に工業を起すには西洋人に勧めて日本で工業をやらせるのがいいと云ふのですから、日本経済の指導者達は如何に考へて居ったのかがよく分かります。ソー云ふ時代での小平さんの開拓者精神が如何なるもので有ったか、又ソレを貫き通すは如何に骨が折れたかが分かります。 

 

小平さんは技術の発展に対して開拓者精神を以てのぞんだと同時に、製品の営業に対しても同様なやり方を用ゐました」

 

3,「日立精神」の社内オーソライズ

 

 高尾さんが「新しく来る友へ」を書き記した2年後、昭和34年に日立教育綱領が制定され、「日立精神」をその核心とすることが定められた。

 

 その決裁文書では、「日立精神」は第一が「誠」、第二が「積極進取」、そして第三が「和」とされている。そしてこの精神は、日立の社是として、又教育の基本理念として尊重し実践すべきものであり、且つ、将来にわたって存続発展すべき精神である、と規定されている。この決済文書は本社勤労部労務課によって起案され、担当者(溝井)、課長(原田)、部長(森岡)、管掌取締役(児玉)(竹内)、決済(社長)の職印がある。

 

 併せて「日立産業人」を育成するための教育体系も定められた。管理監督者が部下に対して日常業務に即して行う職場内教育を基本とし、必要に応じて教育担当課が集合教育(職場外教育)を主催すべきこと。

 

 教育の責任者は、全社は社長、事業所は事業所長とされ、夫々に教育担当部課を設置すべきこと、そしてなによりも管理者ならびに監督者全員が部下の教育に責任を有すると定められている。

 日立がグローバル化という新しい事態を迎えて、今後「日立精神」がどのように、またどのような形で活かされることになるのか、担当される方々のご苦労が思いやられる。

 

おわりに

 高尾さんの文章に学んで、「日立精神」の「和・誠・開拓者精神」は。日本或いは日立特有のものというわけではなく、世界共通の価値観だということが理解できた。グローバル化の時代を迎えても、従業員の一体感を醸成するスローガンとして十分有効だという事ができる。

 

 だが、もう一つ忘れてはならないのは、高尾さんが折に触れて言及している“自主技術開発”である。日立が世界有数の企業となった今日、新事業分野へ進出するためにはMA戦略は必要不可欠だと言えよう。そこでは“自主技術開発”のスローガンはどのように活かせるのであろうか。あたかも日立伝統の“落穂”の精神の如く、他人任せの買物をせず自ら調べる努力、ブラックボックスのまま放置することを許さず原因と結果を究明する姿勢が、小平さんの思想の中にあるのではないだろうか。

 

 技術と事業の内容を、自らの手で出来得る限り原点に遡って把握しようとする精神、そしてそれを記録して後の世代に伝える努力、これが「日立精神」の根底にあるように思われるが、はたしてどうであろうか。

 

<付記> 

上に引用した高尾さんの文章の中に、明治40年前後に於ける日立と東芝の経営方針の違い、「自主技術の日立」と「技術導入の東芝」の違いが鮮やかに示されていた。これに関して、小生の「『晃南日記』に見る小平翁の抱負」という文章に、馬場粂夫さんの見解が載せてある。長文であるが末尾に付記させて頂きたい。

 

長年のよき競争相手であった東芝についての最近の報道を見ると、日立の先人の卓見が今更のように大切なものだということが分かる。高尾さんが当時、次のように警告を発していたことは、以て銘すべきことと思われる。

「今日の日立も開拓者精神を失えば、・・・一度は隆盛の日も見ようが、間もなく滅亡の一路をたどる・・・こと、日立と雖も其の例より洩れ得ないのである」

 

「『晃南日記』に見る小平翁の抱負」より

 

<自主技術の社風>

 『技術王国・日立を作った男』(加藤勝美)によると、日立創業当時モーター、発電機などことごとく問題を起こして、顧客である日立鉱山から「機械製作をやめろ!」と非難されたが、小平さんは「独自啓発方式を貫き、他人に教わったり特許を買ったりしなかった」という趣旨の、馬場粂夫さんの発言を次のように紹介している。

 

 「事を始めるに当って他人に教わるか自ら失策を重ねて自分の無知を改めて行くべきか否かは重大な根本問題である。課長(小平浪平)はこのいずれにすべきか若い者に試みさせていたようだ。日本人はまねがうまいから、だいたい前者の道(他人に教わる)を進んでいる日立においては、断然、後者の道(自ら失策を重ねて自分の無知を改めていく)を進んだ形であるだから投下資本のかなりの大きな部分が無形のまま人の頭に叩き込まれたといえる。その一つは協力一致して事に当ること、もう一つは覚えの悪い者達に与えた知識である」

 

<ある経済学者の認識

 『明治大正史・下』(中村隆英)には、日立の“自主技術”が生まれたいきさつが、次のように描かれています。

 

「(第一次世界大戦によって)輸入が途絶したことによって、機械工業とか化学工業とかを、嫌でも国産で何とかしなければいけないことになって、その種の産業が急に伸び始めました。これも後になればだんだん恰好がついてきたのでしょうけれども、最初のうちは相当ひどいものでした。

 

 現在、日立製作所は大きい会社ですが、当時は、日立鉱山という鉱山用の電機機械の修理をやっている小さい工場だったのです。それが電機機械を作り始めたのですけれども、最初のうちは失敗だらけでした。例えば、高電圧の電流を流すスイッチがあります。スイッチというものは、ほかに電流が流れないように、絶縁をしておかなければなりませんが、実際にはその絶縁が不完全で、スイッチを入れた途端に爆発したとか、いろいろな話が最初のころはあったようです。

 

 当時、電機機械類を何とか造れたのは東芝だけでしたが、それも、アメリカのゼネラル・エレクトリック(GE)社の技術を導入して何とか造れるようになったのです。

 

 三菱電機も当時アメリカのウエスティングハウスという会社の技術を入れ、それで何とか造っていました。

 しかし、日立は、鉱山の付属の小さい工場ですから、金もなくアメリカの一流企業と提携することはできません

 

 ですから、外国製品のまねをして、それに近いものを造っていくという努力を重ねていったのです。電信柱の上に載っているのは変圧器ですが、あの程度のものを造るのでも最初は大変苦労したようです」

 

 中村隆英という人は、経済学者として評価できるのですが、こうした想像力の欠如した歴史記述をみると、少々がっかりします。

 

<おわりに>

 福沢諭吉は明治維新における偉大な啓蒙家ですが、西洋文明を単に模倣するだけでなく、その精神を理解することが必要だ、と説きました。そこで重要になるのが、経験的法則を把握するための実験的精神です。福沢は東洋と西洋を比較して、東洋でも鉄から刃物をつくり木石を切って家を建てる技術はあるが、これは学問上の真理原則を弁えて行っている訳ではない。だから真実の改良進歩は期待できないという趣旨の著作があるそうです。

 

 小平さんは「工科に創成的事業」があるべきだし、「模倣を以て満足」してはならないと考え、その為には学問の裏付けが必要だと『日記』に記します。つまり日本の工業の将来に向かって「イノベーション」の能力を育てようとしていた、とも考えられます。

 

 福沢の「独立自尊」というモットーは、小平さんの「自主技術」というそれと符合します。時代を切り拓くような工業的発想を持っている点を、高尾さんは、小平さんのエラサと感じ取ったのではないでしょうか。

 

                      以上