浪平は「身辺雑記」に『この五ヵ年間を全部この自治寮にて暮らしたれば、自分等よりも五年上級生も自分等よりも三年の下級生も同じ釜の飯を喰ひたる理にて、交友も比較的多きはこれが為なり。後年実業界に出て仕事をするに便利を得たる事絶大なり。しかも共友人には法、文、医は申すに及ばず、理農科にも知友多き有難き結果を生じたるなり。純真にして素朴なりしこの寄宿生活こそ実に吾輩の将来に役立ちし錬成道場なりしなり。』
加えて工科大学で1年留年しているので合計8年間の学生生活である。
愛媛県松山生れ。工科大学鉱山冶金学科卒。初代日本鉱業社長。藤田組小坂鉱山入社。生鉱吹き銅製錬法を開発し、経営危機の小坂鉱山の再建に大きく貢献。
明治40(1907)年、久原房之助の招聘を受け日立鉱山に移り、久原の意を受けて国内第一級の近代的な事業の建設の指揮をとり、日立鉱山は竹内によって発展の基礎が築く。
浪平とは高等学校時代の学友。浪平と同じ明治7年生まれ。浪平は電気工学科二年進級する時 落第しているので一年早い明治32年小坂鉱山入社。彼の誘いで浪平は同じ小坂鉱山入社したと思われる。
浪平が東京電灯から日立鉱山に転職したのも竹内の誘いと思われる。明治43年 房之助の気の進まない”工作課独立”を浪平を陰から応援した。彼のバックアップが無ければ日立製作所の独立は別な形になったかも知れない。竹内は鉱山としては必要性が薄い浪平の「自前技術による電気機器開発」を支持し、日立製作所創業に大きく貢献す。
久原が一番信頼を寄せていた部下であったが、竹内は、その人生を回顧して「予の事業は久原の事業にして、久原の事業は予によって仕遂げられたと」と述べている通り、久原とはそりが合わなかった。昭和20年没。
工科大学時代の1年生時に浪平は留年をしてしまったため卒業は明治33年卒の同期。のち名古屋帝国初代総長となった人物。
渋澤栄一の甥で、栄一の海外視察のお供をして渡欧、スイスのチューリッヒ工大に学び、シーメンス、米国のGE工場で実習してきた当時としては水力発電技術の第一人者。
帰国後逓信省電気試験所の技師となり、当時東電の前身東京電灯が新建設する世界的な規模の桂川駒橋発電所の主任検査官をしていた。
その渋澤が駒橋に行く為中央線の始発駅飯田橋駅で列車に乗り込むと、偶然浪平と乗り合わせた。ここからが日立の稗史に残っている有名な「大黒屋会談」である。この晩の二人の会談で、浪平は東京電灯を辞め 久原の日立鉱山に転職する決意をす。自らの手で電気機械の開発・製造を国産化しようとした覚悟を決めた会談であった。
振り返ってみると結果的には「渋澤」家とは不思議とご縁がある。
①浪平に電機産業の夢を語ってくれた「村井弦斎」の父清は渋澤栄一の知遇を得て第一銀行勤務。渋澤栄一の子息の家庭教師も勤めたほどの教養人であった。
②渋澤栄一の甥が渋澤元治。浪平の同期の学友でもあり 終生お付き合いしている。写真は平塚市の弦斎公園近くにある浪平「別荘地跡碑」に高齢をおして出席している。
③浪平の兄儀平は学業を中退せざるを得なくなり 栃木の第四十一国立銀行に勤めだしたが この銀行は昭和初期の金融恐慌の銀行再編で第一銀行に吸収され 栃木支店と宇都宮支店の支配人になっている。又儀平の息子知二は慶応義塾大学理財卒後の最初の勤務先は東京貯蓄銀行であり、この銀行は渋澤栄一の出資した銀行。
④日立は 昭和初期の不況時に 大胆な大型投資をしているが かなりの融資を第一銀行から受けている。