明治33年秋、浪平は社会人となり秋田県の山奥小坂鉱山に赴任する。その時以来 今尾二三郎は 部下として仕えた第1号である。
今尾は岡山県出身、明治2年生まれで浪平より5歳上。
明治43年に創立した日立製作所転じ、大正9年浪平が本社勤務と同時に本社の会計主任となり、昭和5年還暦を機に定年退職。一貫して会計・原価計算事務を担当。浪平の下で25余年勤め上げた。
「日立工場75年史」(P5)によると 創業の元勲(野武士)と言うべき5人を取り上げている。その内の一人である。
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・今尾二三郎;調度品関係の大福帳式事務から伝票組織に切替え、事務の画期的な能率化をはかり、当社における原価計算制度への端緒を開いた。
・平野俊雄;全国各地に行脚して優秀な経験工の獲得に奔走し、生産陣立てに大きな役割を果たした。
・宮手義男;鋳物の自作に懸命の努力をし、当社における鋳物作業の草分けから育成に貢献した。
・大谷敏一;草創期における営業の第一線に立ち、信義と責任を尽くして誠を基調とした営業道を確立した。
・中村喜太郎;性来の潔癖さと几帳面さも持って会計業務に活躍。
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今尾はいくつかのエピソードを残している。
・12歳の明治14年、親から天保銭を若干貰い受け、汽車のない時代に 岡山から父親の大阪の知人宅まで約50里(200㌔)を一人旅をした。
・近衛歩兵として入隊。一兵卒から少尉にまで進級。駆歩が得意で この少尉の駆歩はいつも下士卒を戦慄せしめた。
・日立入社以来20年余 一度も欠勤なし。兵士時代から40余年医薬のお世話にならぬ頑健者。
・人と交わっては誠に義理堅く。懐中が乏しい、乏しくないに拘わらず「義を見せざるは勇無きなり」が処世訓。
要は 清廉潔白・頑固者である。
父惣八の鉛丹製造事業失敗を反面教師として 浪平は「モノづくり」には「現場」をよく見て、原価積算が大事、「事業化」にはキャシュフローが大事であることを徹底して今尾を仕込んだのである。
一方 高等学校時代に始めたローンテニス、工科大学時代に玉突きを徹底してやったように、浪平はゴルフは大正の末に程ヶ谷CCのメンバーになってからのめり込んでいった。頭の片隅には自前のゴルフ場を造ろうと言う夢があったに違いない。その夢が実現するのが昭和9年の上場の頃。土地買収等で紆余曲折あったものの お客様と社員の福利厚生を建前に「大甕ゴルフ場」を昭和11年にオープン。
浪平は リタイヤーして5年経ち、而もゴルフには全くの素人である今尾を中野の自宅まで訪問して 支配人として再登場をお願いしている(注;今尾さんの孫上田英一(元三井銀行副頭取)さんからの話。浪平は今尾の「清廉潔白・頑固者」の性格を見抜いていたのであろう。昭和19年戦争でゴルフ場クローズするまで支配人を続けた。
日立オリジンパークは、日立が1910年の創業以来伝承してきた企業理念や創業の精神を、世界中の人々と社会課題を解決してきた事例とともに紹介する施設。日立の福利厚生施設である「大みかゴルフクラブ」の敷地内に、日立事業所海岸工場構内(既に同所は「三菱村」となってしまったので)から「創業小屋」を移設するとともに、展示施設として「小平(おだいら)記念館」を新たに建設し、地域の皆さまや世界中のビジネスパートナーとの新たな対話の場として開設。また、世界中の皆さまにお越しいただくことで、日立市の更なる発展に貢献することもめざす。日立オリジンパークは、「創業小屋」、「小平記念館」、「大みかクラブ」、「大みかゴルフクラブ」の4つの施設から構成され、新旧3つの建物が広場を取り囲む一体感のある自然と調和した施設にする予定とのこと。