6,心酔した男;高尾直三郎と馬場粂夫

 四十数年もの間 浪平の青雲の志を「経営面」から支えたのが高尾であり、「技術・研究開発面」からは馬場である。共に明治19年生まれ、工科大学電気卒。馬場は病気により1年遅れで日立鉱山入社。

高尾直三郎

     高尾は浪平の追憶集『小平さんの想い出』に寄せた「小平社長追憶記」の中で、次の ように書いている。

 

「初めてお目に掛かったのは 1908(明治 41)年 7 月、大学の夏期実習を日立鉱山で行ったあと、 翌年1月~3月の規定実習もそこでやり、さらに7月卒業とともに正式の社員として採用してもらい、 それから四十数年の間その下で働いたので小平さんのいろいろの相を見たわけである。 以下は 高尾が見た小平相(側面観)である。

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① 経営方針が手堅い。

② 実行力に富む。

③ 目標が大きい。

④ 決断が早い。書類を提出すると、すぐ目を通し説明を聞き、即座に採否を決済する。

⑤ 合理性がある。 ⑥ 数字を基本とする。

⑦ 事務的であり技術的であった。

⑧ 勘がよくセンスが常に新しかった。 

⑨ 信念が強く、一度言い出したらなかなか引かないし、一度やりかけた仕事は損が出てもやめ ない。

⑩ 思い切りが良い。

⑪ 義理人情に厚い。 

⑫ 人を信頼し寛容であった。特に人の話をよく聞いた。部下に仕事をやらす時は思い切り信頼して、そのやり方が自分の考えと少々違っても、それが正直と熱心とでさえあれば黙ってみて いる。

⑬ 負けず嫌いであった。

⑭ 公私の別を明らかにした。

⑮ 質素倹約であった。

⑯ 名声と名誉を求めない。  

⑰ 絵画、書道、陶器、建築等に趣味が広い。

⑱ 音楽演劇の趣味もあり、時々映画も見る。

⑲ 運動は散歩、後にゴルフも。 

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 これを要約すると、小平さんは各方面にわたり非常に勝れた性格を兼ね備えた人で、その各方面というのがまた普通の人にないほど種類が多く、しかもその多い種類がよく調和し、正反対の性格がよ くバランスしている、ということになる。 

 

尚 これら①~⑲迄の具体的な解説・事例を「日立回想録」(昭和40年発刊)に載せています下記PDFをダウンロード)。

 

高尾直三郎の略歴

1886 (明治19)年 出生 現在の香川県丸亀市

1909 (明治42)年 東京帝国大学工科大学電気工学科卒業

  久原鉱業所日立鉱山に入社

1912 (明治45)年 日立製作所作業係長

1918 (大正 7)年 日立工場副工場長

1920 (大正 9)年 日立製作所副所長兼日立工場長

  株式会社日立製作所設立、同社取締役兼日立工場長

1929 (昭和 4)年 常務取締役

1936 (昭和11)年 専務取締役

1940 (昭和15)年 副社長

1942 (昭和17)年 電気学会会長

1951 (昭和26)年 相談役

1957 (昭和32)年 藍綬褒章

1970 (昭和45)年 永眠


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小平浪平の側面観解説(具体的事例)
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馬場粂夫

 1974年は小平浪平翁生誕百年に当たるので「故人懐旧」という一筆を砥柱餘録(抄)に起こしている。

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 親しくその直下に育成された方々も段々稀少化し、既に歴史上の人となられた方もあるので、その教えるところと日立の方針確立についての思想は、希薄化する恐れなしと恐れなしとせず、その思想の中、続く日立人において確保すべき二、三の教えを、凡槍ながらお伝えしようと思う。

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  馬場粂夫は高尾と中学時代の同級生だが、日立鉱山に 1年遅れて入社した。追憶集に寄せた「日立 精神ということ」によると 、「私は小平さんより丁度 10 年の後輩で明治 43 年、小平さんが日立鉱山工作課長をされていたところへまいり工作課技士を拝命したが、当時ひそかに雄図は伝えられた。 爾来 1910-1951 年の 42 年間、あるいは叱られあるいは教えられあるいは励まされ実に懇切に親しく導かれた」と前置きして、故人の精神をお互い護り伝え、相より相助けて日立を立派にしたいので あると述べている。

 馬場が言う日立精神とは次のことである。

① 誠実之を離れず 虚偽之に卽かず(つかず)

② 不言実行 狗頭羊肉

③ 創業石

④ 下り金

⑤ 楽しみを頒ち(わかち)苦を担う 。

このうち、創業石と下り金については少し注釈が必要である。 

 創業石は日立製作所創業 30周年とかで、高尾が昭和 15年に小平の名誉の記念に日立の創業を永久に伝えたいと考えて熊野神社の境内に設けた記念碑である。高尾は小平本人に相談せずに従業員一同の志として、除幕式に招いたが、あまり喜ばなかったという。世間では、小平本人が希望したと思う かもしれないが、実際は部下たちの企みであった。 

 

 下り金とは、自分の使った金を給料から差し引いてもらう制度で、(給料よりも使いすぎて)給料が赤になることをいう。この赤を下り金という。馬場は「下り金は良くない」との小平からの助言を以 後戒めの言葉として受け止めていたという。