8、太平山遊覧道路

「長谷川平」と「顕彰碑」

錦着山を過ぎ永野川の「上人橋」を渡ったところ辺りから太平山に向かって「太平山遊覧道路」がスタートする。途中は両側に桜並木と栃木CCのコースを通り抜け、全長3.9キロ。終点は茶店「あづま家」。大平神社へはここから徒歩5分のところに鎮座する。この道路は昭和6年に町長に当選した長谷川調七の発案で「失業対策」として開発されたものである。

 

昭和初期の長引く不況に対して、犬養内閣は農村振興土木事業に対して総工費の四分の三程度の国庫補助を行い救済事業する方針が打出され、条件としてこれに従事する者は農民と生活困窮者。 

 

今では当たり前の観光事業。当時は誰も考え及びなかった一大事業を提案。総工費20800円、就業人員延べ 1100人、道路長さ約4㌔、幅7m。昭和7年末着工して、1年半後の昭和93月完成。その時東武鉄道から桜の苗木7000本が寄付され、青年有志により両側に植樹されたという。

 

「長谷川平」とその「顕彰碑」は上り始めて3キロぐらいに國學院方向へ左に分岐する箇所にある。建設当時は栃木市内が一望出来る場所だっただろうけれど いまや木々が鬱蒼と茂っているため暗く、陰鬱。観光パンフレットにも関東平野が一望出来る「信玄平」にある立て看板にも記入なく、市で作成した「案内板」も汚れ、朽ち落ちている。

浪平と調七との関わり合い

                                                       <左側に見える工場は日立栃木事業所>  

 

長谷川調七家は皆川城家臣の流れをくみ、江戸時代には栃木宿で年番町名主を務めた当地では名家の一つ。家業は明治の中期から始めたであろう書籍や文具を扱う商人。屋号は「出井」。現在でも「出井書店」として大通りに100年企業として存続している。

長谷川調七は明治11年生まれ。その姉はチカ(知加)と言い明治7年生まれ。このチカが浪平の兄儀平の最初の結婚相手。不幸にして肺病のため明治311031日(戸籍上)強制離婚(当時の医療レベル、家族制度(家の存続)の犠牲者か)。翌年の6月に26歳で病没。

 

「晃南日記」には度々、兄のチカとの結婚披露宴、チカの病気のこと、離縁が登場している。

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<家兄儀平の結婚披露宴;千秋万歳

明治27年4月5日;花笑ひ鳥歌ひ、霞は棚引き実にや長閑き春の季節、さらぬだに嬉しきは家兄の祝儀にぞある。

 酒の池、肉の林、山のもの、海のもの、川のもの丘なすばかりなり。来客には間中伯父母、同小雪、供一人、金崎伯父母、同力、大沢貞司、其他の親戚を始め組合、近隣等百五六十名なりき。夜七時頃花嫁御寮は静々と入り来りぬ。何事も古例前格のある事なれば、長々しき儀式を為すもひま取りて、十二時過ぐる頃漸く夜食となる。全く終りて栃木町の来客の帰りたるは午前三時なりき。目出度しめでたし。(注;調七も長谷川家戸主と出席していた)

<兄嫁の病気>

・明治28720日;兄嫁の病気の殊に恐るべき、況してや妹も亦同じ病気なりとのこと、天道は果して是乎非乎

<兄嫁との離縁>

・明治31年の暮れの「歳暮感」;余一身の外に於て重大なりし出来事は 兄嫁の離縁となりしこと。

 

 浪平と調七とは兄嫁の関係であったので離縁したとは言え義兄弟である。

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 長谷川調七が田舎の政治家として活躍時期は兄儀平が第一銀行の支店長と重なり、浪平ともお互い交流していた。この失業対策事業も儀平・浪平のアドバイスを受けたと思われる。

 

長谷川調七 公職履歴

公職

期間

備考

栃木町町長

4代目

昭和610月~昭和106

初代町長は根岸政徳氏(明治24年~)

栃木市議会議長

初代

昭和127月~昭和152

栃木市市長

3代目

昭和153月~昭和164

栃木市の市制は昭和12年~、初代市長は榊原経武氏(昭和12/714/6

   

出所;「栃木市の歴史」日向野徳久著(昭和411110日発行)

 

以上

長谷川家のお墓

 

 

 長谷川家のお墓は栃木市の中心地・入舟町に個人墓として現在もある。広さは約52坪位。明らかに戦国時代からと思われる古い墓石は判読できず。

 戦国時代は小平家と同じく皆川家臣団の一員であったと思われる。