『晃南日記』

 明治24年に民法典の編纂問題が起きます。中でも家族法は社会の構成に関わるので、大きな議論を呼んだようです。 ボワソナードによるフランス流の原案に対して穂積八束は「民法出でて忠孝亡ぶ」と批判しました。  家族を支配する戸主(家長)権、家督という観念、隠居・養子制度など日本の伝統的家族制度のあり方が問われました。...
 浪平は、身元保証人(注;間中義兄)など 東京在住の親戚の所へ、実に頻繁に顔を出し、ご機嫌を伺い、諸々の手伝いに精を出します。日記の記述を見ると、それが気質に合っていたというよりは、強い義務感から実行していたように見える。...
<人生の師;村井弦斎との交遊>    先達との交流では村井弦斎氏が重要です。弦斎は幼くして漢学を学んだ後、20才で論文の懸賞を得てアメリカで1年間学び、帰国後一時小平家・大澤家に食客として寄宿、その時儀平・浪平の家庭教師をした由。日記に書かれた時期は、ジャーナリスト、SF作家として活躍中。...
浪平は、友人とのいかにも書生っぽい議論、自らの見聞、読書、先達との交流を通じて、自身の世界観を鍛え上げる。日記の節目に記された、立身出世論、世間的名声論、学問の本質論などの考え方は興味深い。 また、大学1年次での落第は大変なショック、これを廻る記述は感動的です。...
明治28年大晦日の日記に次の文章あり。...
ボート競漕は高等中学入校前の英語学校のボート会に入会して始めたと「身辺雑記」に書いている。ローンテニスは一流になったが、ボート競漕は身体能力からか正選手にはなれなかったと。 ************************...
   浪平は、当時漸く盛んになりつつあった野球については、選手として活躍した訳ではない、その観戦記には興味深いものがあり。  特に、明治29年5月23日に横浜で行われた試合は、日本初の国際試合として歴史に残るもの。寮の仲間が選手として出場し、浪平も応援に駆けつける。 明治二十六年 六月二十四日...
   浪平は明治31年5月頃に玉突をはじめた様ですが、この年の9月以降の入れ込みようは凄まじいものがあります。 明治三十一年 七月二十九日  午後山崎氏と上陸(注;千島海底電線布設工事実習の途次 根室に)にて玉を突く。  九月十六日及び九月十七日  鎌倉駅前の玉屋で玉を突く 村井弦斎氏と。 九月二十一日  乙部氏と玉を突く。 九月二十二日...

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