関わった人々や事柄

 写真は浪平生家前の合戦場郵便局。生誕地碑が見える。  浪平の生家の合戦場の住所は 平成の大合併で「栃木市都賀町合戦場」となったが戦前は「下都賀郡家中村大字合戦場」であった。  しかしながらこの地は数百メータ歩けば栃木市であり、浪平が兄儀平宛てに出した住所は ・明治34年の小坂鉱山から;「下野国栃木町合戦場」...
 愛媛県松山生れ。工科大学鉱山冶金学科卒。初代日本鉱業社長。藤田組小坂鉱山入社。生鉱吹き銅製錬法を開発し、経営危機の小坂鉱山の再建に大きく貢献。  明治40(1907)年、久原房之助の招聘を受け日立鉱山に移り、久原の意を受けて国内第一級の近代的な事業の建設の指揮をとり、日立鉱山は竹内によって発展の基礎が築く。...
「失業対策としての太平山遊覧道路建設」(長谷川調七元栃木町町長) 錦着山を右手に見ながら永野川を渡ったところ辺りから太平山に向かって「太平山遊覧道路」がスタートする。この道路は昭和6年に町長に当選した長谷川調七の発案で「失業対策」として開発されたものである。...
 昭和5年と言えば 昭和初期の不況から日本経済は未だ脱出出来ず 失業者が溢れていた時代。しかしながら 浪平は 将来の電気機械産業発展を見据えて大型投資構想を描き、その実現に動き出した時期。  この年 兄儀平は満60歳を迎え、父惣八の急死により一高退学して、最下級事務員として40年間勤め上げた第一銀行栃木支店長を最後に定年退職。...
 浪平は明治十八年六月(十二歳)淑愼学舎(合戦場小学校)を退校して、父惣八の命令で栃木小学校に転校する。そして栃木協立英学校が明治二十年に開校したため 補修のため入学している。...
   左記戸籍謄本で見る限り浪平の誕生日は明治7年4月16日である。この戸籍謄本は昭和13年役場から取り寄せたもので、1ページの全体は 下記pdfの通りである。  一方会社の社史や碑文には全て明治7年1月15日となっている。この1月15日は兄儀平が家督相続した日である。...
  下野国には ・徳川の武将だった譜代大名は宇都宮藩(7万石)、壬生藩(3万石)、烏山藩(3万石)、足利藩(1.1万石)、吹上藩(1万石)、佐野藩(1.6万石)、高徳藩(1.1万石)の7藩。 ・外様大名としては大田原藩(1.1万石)、黒羽藩(1.8万石)、喜連川藩(0.5万石)の3藩。合計10藩、皆小藩である。...