3,習俗への感覚

 

 浪平は、身元保証人など 東京在住の親戚の所へ、実に頻繁に顔を出し、ご機嫌を伺い、諸々の手伝いに精を出します。日記の記述を見ると、それが気質に合っていたというよりは、強い義務感から実行していたように見える。

 

養子縁組問題と併せ考えると、その後日立が、閨閥を作らず、郷党に組せずという意味での“野武士”魂(自主独立の精神)と称された由縁もこの辺りにあるとみるのは穿ち過ぎでしょうか。

 

明治二十六年

一月十八日

 午後間中氏を真砂町の精華館に訪ふ。此に於て始めて間中雲帆老人(注;維新の際の勤王家で且つ詩人で一家をなした人物)死及其に就き、間中氏は菊坂町(注;本郷三丁目あたり)に転宅せし事を知る。直に菊坂町に至りて弔辞をを述べ、此夜間中氏に一泊す。

二月十二日

 雲帆老人の追善として饅頭を配るに就き其配附方を依頼せらる。依て午後より間中氏に至りて其準備を為す。夜十時帰寮す。

二月十三日

 依頼によりて配附を為す。午前本郷、下谷、浅草、本所、神田橋、本町等に至る。午後は巣鴨、駒込、千駄木等に至る。此の事たるや書生の最もなれざる所なる故 随分面白からざる事多かりしも、是は只だ伯母への義務とあきらめたり。

二月十四日

 本郷より日本橋に至りて芝に入り、三光町に至りて赤坂に至り夫れより大久保に至る。車夫疲労せるを以て止むなく徒歩す。大久保より牛込に入り、小石川に入り、糀町に入り、神田に帰り、本郷に入りて帰る。

二月十五日

 午後昨日残りたる南足立郡江北村なる高野子俊氏に至る。氏は小学校長にして余に向ひ非常に優重に来意を謝し、四方やまの話をなして、帰りに臨み照代楽事なる書を贈り、江北村の桜花後日天下に観を添ふるに至らんと語り、又余を渡し場の近くまで送り来れり。

 

明治二十七年

四月一日

 人は謂ふ、書生の帰省は其心をして世俗の心たらしめ、其志想を薄弱ならしめ、其利慾の心をして増長せしむるや大なりと。其言或は然らん。然るに余が一年に三四回帰省するも亦強ち理なきに非ざるなり。父在さずして唯一の母君ありて日夜余が他日を望み居るあり、兄弟妹の皆な頸を伸べて余が帰るを待つあり、何ぞ帰らざるを得んや。

 

 此に於てか、春帰り夏帰り冬帰りて尚ほ足れりとせざるなり。今や春期休業となりぬ。ボートレース目前にあり、東台の花は既に道行く人の袖を曳くなり。此の景を捨て、又帰りて此のホームの団欒たる仲に入りたる又一段の理由なからんや。何をか其理由と謂ふ、曰くホームの維新なり。何をかホームの維新と云ふ。

 

 弟陳平は家に在らずして商業練習として年季奉公に去りぬ。嗚呼弟は早やこの団欒の人に非ず、又何の日か手を携へて共に吹上山上に蘭を探らんや。我れ其期の早や無からんを信ずるなり。之団欒維新の一分子なりき。

 

 家兄将に華儀あらんとす。団欒亦一人を増すなり。又維新の一分子に非ざらんや。

妹満舞も亦外に出でんとす、団欒又一人を欠くなり。之れ又維新の一分子なり。

嗚呼此の維新、吾人は此の維新を悲しむに非ず、否な寧之を喜ぶなり。何となれば家を出で身を立つるの基を開き、新に来るものは此の団欒の花ともなり実ともなり、吾人の幸福を維持増進せしむる事を信ずればなり。

 

 嗚呼 賀す可きの維新なり、祝す可きの維新なり。

 

 然りと雖も団欒の去るに臨み又多少の感なからんや。旧団欒は如何なる経歴を通過したるか、曩きには父を失ひ年を越えて又老祖母を失ひ、団欒は忽ち寂莫を感じたりき。然れども曖然たる和気は其間に充満したりき。

 

 一母七子常に炉を接して茶を喫し、菓子を食ひ、往を談じ後を説き、波瀾の一撃も之に加はるなかりき。狂瀾外に起るも、此の団欒には常に春風の駘蕩たるものありぬ。此の旧団欒は半去りぬ、吾人豈に多少今昔の情なからんや。

 

 余は新団欒の来らんとするを悪んで旧団欒を回想するに非ず、只だ何となく旧団欒の恋しくあるなり。思へば此の団欒の後相会するの期幾度かある。会者定離とは謂へ、天の無情を喞たざらんと欲するも得ざるなり。

此の維新あり、帰らざらんと欲するも豈得べけんや。

四月二日

 遙に上野の花を思ふ。

四月三日

 二三日来暖気頻に増して、立ちこむる春霞何にか例へん。家内の忙しさもたとへなし。間中伯母来る。

 

<注;家兄儀平の結婚披露宴> 

四月四日

家兄結婚の前日とて忙しき事例へんものもなし。

四月五日

 花笑ひ鳥歌ひ、霞は棚引き実にや長閑き春の季節、さらぬだに嬉しきは家兄の祝儀にぞある。何事も忙しく手も足も休むる暇もなけれど、只だ総て目出度き事のみなれば、慈母を始め疲れも忘れて世話などす。

 

 酒の池、肉の林、山のもの、海のもの、川のもの丘なすばかりなり。来客には間中伯父母、同小雪(注;母方のいとこ)、供一人、金崎伯父母(金崎在住の五十嵐伯父伯母)、同力(母方のいとこ)、大沢貞司(父方のいとこ)、其他の親戚を始め組合、近隣等百五六十名なりき。

 

 夜七時頃花嫁御寮(注;チカ)は静々と入り来りぬ。何事も古例前格のある事なれば、長々しき儀式を為すもひま取りて、十二時過ぐる頃漸く夜食となる。全く終りて栃木町の来客の帰りたるは午前三時なりき。目出度しめでたし。

 

四月六日

今日宿廻りをなすなれど雨降りて止めぬ。金崎伯父帰る。家内の混雑謂はん方なし。

四月七日

嫁御寮の新客とて皆々出でて行く。余と金崎伯母と留守居をなす。

 

 また、母上の信心と書生(注;浪平)の合理主義が微妙に交錯。

 

八月六日

 自ら信ずる之れ信と謂ふ。人に頼まれたる信は真の信に非ず。余は今日慈母の依頼によりて日光山に登拝せんとす。吾常に思ふに婦女子の信神は最も婦女子に適切なる特性を与ふる事を信ぜり。而して慈母は深く敬神の心を有せり。

 

 然れども迷信者の亜流を掬むものに非ず。故に信じて曰く、二荒山(注;男体山)に登拝すれば幸福利沢を得るものなりと。此に於てか毎年家人をして登り拝せしむ。余毎年此の期に家に在り、故に命ぜられて之に登拝す。已に母に頼まれたり。

 

 故に信神に非ずと謂ふなかれ、余は之より自ら書生に非ず一個の信神家なり。  赤心を以て二荒山の霊神を敬するものなり。

 

三月十二日

第二の華儀

 何をか第二の華儀と云ふ。去年家兄が合衾の式を挙げしは余に取りて第一の華儀なり。今妹満舞も良縁を栃木町黒川氏に求めて、今日鶴齢亀歳の祝会を開かんとすと聞く。目出度くも亦嬉しき事限りなし。我等同胞は早く父を失ひ、母と兄との慈愛によりて今日に至りしものなれば、殊に今日の有様を喜ばざるを得ざるなり。余は妹の心中を透視せり。彼れは最も貞操ならんを信ずるなり。能く其夫を助くるの器量あるを信ずるなり。

 

 聴く所によれば黒川氏は当世的才子風の男なりと。之其身を立つるの大資にして又身を誤るの大原因ならずむばあらず。恐らくは余の杞憂ならんか。只だ此の一事のみ余の心に恐れを抱かしむるなり。其他に於ては余は総て満足を感ずるなり。

 去りながら尚ほ一恨事あり、即ち家厳をして此の日を見せしめざること之なり。実に之れ一生の恨事なり。此の日夜十時故郷の天色を望み、其忙しき様、目出度き様など想像しつつ北寮第一番北窓の端、電燈影暗き所に記す。

 

   妹の婚礼に出席することもなく、寮の一室の窓辺で夜、想いを綴る浪平の心境はどのようなものだったのでしょうか。

 以下の記述からは、故郷での生活と学校での生活とのギャップが鮮やかに読み取れる。

 

明治二十九年

九月一日

 慈悲深き母は、今日は余の卒業(注;当時の高等学校の卒業式は七月、新学期は9月)を祝して赤飯を鎮守に納め、神官に無病の祈祷を為さしめむと、朝早く三時頃より起きて万端の用意す。余も四時半に起きて身体を清め鎮守に参詣す。母は近所の家などにも赤飯を送る。余は之を好まずして止め玉へと勧めたるも聴かず。強ては止めず。

 

 朝八時頃に五十嵐伯母は徒歩にて来りぬ。余の上京も程なければなり。家兄の事に就きて種々談話して終に一泊することとなる。高恩無量の伯母なり。余何を以て報いむ。夜に入りて近傍の人間皆な来りて祝ひなどを謂ふ。赤飯に知らせられての祝言など聴くも好まず。去れども無下にも追い返せねば止むを得ず談話などす。誠に其来者を挙ぐれば高砂屋、鍵田屋、糀屋、畳屋、藤屋、東屋などなど。栃木屋も午前に至りぬ。

 

九月二日

 早や帰省してより一月とはなりぬ。其間に昼寝せし時間を統計すれば合計四十時間余り、渋紙を張る事百十枚、其他には掃除と撒水のみ。筆取りしは旅行日記を書き終りて、「宇宙の組成」を半を清写せしことあるのみ。読書も殆ど皆無なり。散歩したることなく、旅行もせず戸外には一歩も出でたることなし。嗚呼吾老ひたる乎否乎。

 

 恋しきものは三年前の団欒なりけり。今に至りて大声之を呼ぶも答へず。嗚呼旧団欒今は何処にかある。天の窮極、地の際外、余れ必ず汝を再来せしめざるを得ざるなり。 

 今や此の楽しき団欒なきも、慈母の郷家にありて恩愛を余に注ぎつつあり。豈に家郷の恋しからざる理あらずや。此の恋しき郷家を辞して今日は学に大学に就かむとして出発するなり。慈母も心中喜ばざるべけれども、力めて喜び勇み余を励して上京の用意万端終りぬ。

 昼食し終れば人力車来りぬ。慈母が心を込めて新調せし単衣と、慈母が慈愛を尽して洗ひし袴とを着て別を告げ、高砂屋(注;隣の分家)に至りて告別して出発す。一時十六分発車して上京す。