明治28年大晦日の日記に次の文章あり。
「試みに九月より十二月に至る余の歴史を此の晃南日記に問へ。如何に余が碌々として奮はざるかを教ゆべし。其門前の蕎麦屋に長夜の饑を医し、一酌の酒に寸時の快を取りしこと何回、豊国に滋養分を取りしこと何回、小梅月に無邪気の慾を逞ふしたる幾回、友人を訪ふて閑談数刻なりしもの幾回、ローンテニスの快遊に日の暮るるを知らざること何回、墨田の清流に短艇を浮べしこと何回ぞ。数え来れば余が如何にして微々たりしやを知るべし。
思想界に於ける余の収穫は此の如しと雖も、身体上の収得は蓋しここに止まらざるなり。其体量は昨年に比しては著しく増加したり。其精神的訓練に於ても又一種不抜の気を得たり。此の体力や、此の精神や、挙げて用ゆれば又何を乎為し得ざらむ。余が碌々たる生活の内に於て唯一の余を慰藉するものは即ち是のみ。」
これを見ると、浪平は学業成績が奮わないのは、幅広い交友関係とスポーツに集中し過ぎたためである、と反省。でも、体力と精神力の涵養に役立ったと自負するように、スポーツへの熱中ぶりは、それこそ半端ではない。日本のローンテニスは、米人が明治11年に伝えたのが始まりで、明治19年東京高等師範学校で取り入れられ、大正に至って有名選手の活躍もあり、盛んに行われた。
浪平は、明治31年大晦日の日記に次のように記し、ローンテニスへの自信を示す。
明治31年大晦日の「歳暮感」
「五月の頃に至りて余は玉突きを始めたり。爾来余の運動の大部は此の戯によりて為されたりと雖も、ローンテニス界に於ける声価は全く余の独占なりき。」
明治二十六年
二月十八日
午後所謂ヤジ倶楽部なるもののロンテン(注;ローンテニス)のマッチありて、来賓として勝を制しパンを饗せらる。又撃剣の大会ありたるを以て参観す。
十一月五日
ローンテニス大会
我一級生の有志の設立せるローンテニス大会を行ふ。総番組十四回にて内、外賓四回、余は二回にて全勝。午後より又有志にて柿を賞品として勝負を行ふ。余は6回にて5回の勝を得たり。
十一月二十三日
校友会ローンテニス部の勝負あり。余も二回行ひて一回勝ちを得たり。
明治二十七年
一月十五日
夜岡田君(注;高校時代の学友で、後日彼の妹也笑が浪平の妻)を訪ひ ローンテニス会の事務を継続す。
五月十三日
午前は校友会ローンテニス部の大会にして、余も三回の勝負をなし一回勝つ。
十二月八日
我がローンテニス会敏坊倶楽部は、本日午後を以て食堂倶楽部と連合大会を行ふ。
明治二十八年
二月六日
此日盛にローンテニスを遊ぶ。此のローンテニス会の幹事は二年ばかり小生が行ひしが、余り繁雑に耐へず、依て之を生田君に引き渡す。
五月五日
大学ローンテニス大会
山根氏が和船を漕ぎに行かぬやと勧めしも、之を断りて今日は勉強せむと思ふ内に、菊池、村田、森脇の三氏来りてローンテニスを遊ばんと勧められ、例の事なれば断る事も出来ず之を始めしに、十時に至りて今日は大学にローンテニスの大会あり、来賓に行かむとて大隅氏に勧められ皆々之に行く。
青木堂煎餅の馳走あり、やがて余等は勝負を始めぬ。先ず余と永嶋氏、菊池と吉武にて勝負せしに余は勝ちぬ。第二には大隅と村田、森脇と菊池にて大隅の組は勝ちぬ。
十二時頃帰りて午後に至りて又もや盛んにローンテニスを遊ぶ。青井、森脇、村田、菊池、永嶋及余の六人なり。三時半に至りて球の破れたるを以て止む。此の六人及井上匡四郎及古山石之助の二人を加えて、之を当時ローンテニス助手連と云ふ。
五月十二日
校友会テニス大会
今日は校友会のローンテニス大会あり。七時頃より出でてグラウンドの掃除などし、水を撒き線を画きなどす。八時半より大会は始まりぬ。総て二十四回ありて余は三回勝負したり。
先ず余と森脇にて敵は古山と菊池なり。遂に余等の勝となれり。
次は永山と余、敵は青井と伊藤なり、遂に余等は負けたり。
次は本会最終の勝負にして余と村田、敵は伊藤と大野にて余等は勝ちぬ。
此の日の商品は西洋手拭と石鹸となりき。
明治二十九年
六月二十四日
校友会ローンテニス部は先に廃止することに決したれば、今度は最後の勝負を為さむと、今日其会を食堂脇のグラウンドに開く。
出席者僅に三十名位にして賞品と菓子とは山をなす程なり。余も四回勝負して二回勝ちタオルとシャツを取る。
午後 間中を訪ふて四時頃帰る。大野、森脇、村田、井上等余の帰るを待ちてテニス部の懇親会を開かばやと、福島縫氏も誘ひて共に豊国に至りて食ふ。
そして明治30年5月17日の日記に「盛んにローンテニスを遊ぶ。面白さ限りなし」と記されたように、ボートレースと並んでローンテニスも浪平にとって大切なスポーツであった。