3、ベースボール

 

 浪平は、当時漸く盛んになりつつあった野球については、選手として活躍した訳ではない、その観戦記には興味深いものがあり。

 特に、明治29年5月23日に横浜で行われた試合は、日本初の国際試合として歴史に残るもの。寮の仲間が選手として出場し、浪平も応援に駆けつける。

 

明治二十六年

六月二十四日

 去る十七日、しかも試験の真最中に申込まれて、三田の慶応義塾とベースボール・マッチを為して一点の敗となりたり。今は試験は終れり、早速之が復讐をなさばやと慶応義塾に申込み、白金の明治学院にて勝負を行ふ。弥次として行き見る。面白き事限りなし。一に対する十二プラスαにて大勝利。

 此の日同室諸氏と富士見楼に宴を張る。高言放論心腹を開き蔵する事なし。近来の大快事。

十一月二十一日

 英一級と仏一級とベースボールマッチを行う。余もレフト・フィールドとして出でたりしも、始めての事とて思ふままならず、可笑しき事のみなり。

明治二十八年

五月七日

 西寮対南北寮 ベースボール・マッチあり、南北寮勝つ。

五月二十日

 我が二部二年二の組と同じく三の組とベースボール・マッチを施行す。組と組とにてマッチを為すは之が始めてなるべし。(注;以下両軍の選手名並びにポジションの記載あるも省略 尚 浪平のポジションは1st)二時半より勝負は始まりぬ。最初の程は余等の勢盛なりしが、後には井上氏が面部を球にて打たれたるより敗運に傾き、遂に七つの敗となりぬ。今日の選手は皆々素人にして、只PとCとのみが玄人なれば其可笑しき事限りなく、実に運動上に一種の花をぞ咲かしける。敗れしは残念なれば復讐せむなど皆々謂ふ。

 

六月二十二日

 対三田ベースボール・マッチ

 三田の慶応義塾と明治学院の同盟軍は、又も学年試業の最中にマッチを申込めり。吾何ぞ恐れむ、遂に今日を期し本校の運動会にて施行す。一に対する十二プラスαの大勝利、目出度し目出度し。

 

明治二十九年

二月八日

 本日本校のベースボール第二選手と同志社及明治学院の連合選手とのマッチあり。仲々面白きマッチにて九回の勝負にて各四点にて勝負なかりしが、尚ほ一回の勝負をなして遂に敵の為めに勝たるること一プラスα。今来眠れる如き運動部内に好一針。

 

三月七日

 午後は過日我校を破りし明治学院及同志社に対する復讐マッチあり、終に三点の勝を制す。

 夜村田、多田、遠藤、葛西と、皆財嚢を搾りて門前の蕎麦屋に至る。

 

五月二十三日

 対アマチュアー・ベースボール・マッチ

 今日は測量は談判して休業となる。横浜の洋人とベースボール・マッチあるに依るなり。

 早朝 村田、井上、井原などの同窓者は本校対アマチュアー倶楽部の選手として横浜に出発す。天気は朝より霧雨降りて定まらず。十時頃に至りて青空少しく見ゆ。横浜よりマッチ施行の電報来りて校内の元気大に振ふ。

 

 余も今日は行かむと思ひ居りたれば山田を誘ひて行く。十二時過ぎに余は寮を発し、山田は十一時前に帰宅して新橋に会することとなる。一時半に新橋を発して汽車は本校の弥次馬連中二百余名を載せて横浜に着す。三時に至りてマッチは横浜公園内の芝生の運動場に開かれたり。

 

 流石は本場の人種丈ありて仲々球扱に熟せる如く見えたり。第一回に彼は四点を採りたり。弥次馬大に色を失ひ洋人は益々得意なり。第二回より我校は常に三点四点、多き時は五点位を採り、彼は其後遂に一点も得るなくして、遂に二十九余に対する四の大勝利を得たり。

 

 一同停車場に至りて万歳を唱ふ。徒歩にて帰りたるものも多し。余は山田と同車して面白く談話せし内に汽車は新橋に着きたり。先頭第一に停車場を出で鉄道馬車に乗りて万代橋に至り、山田は今夜帰寮を約して帰宅す。余は腹の痛みたる故に休息せむとて間中を訪ひ、帰途中金にて夜食して帰り、明日のボートレースのプログラムを書き一時頃就眠す。

 

五月二十九日

過日敗北せし旧同志社ベースボール連の復讐マッチあり。我校又十二点の勝となる。

 

六月二十七日

 午後三時より米艦デトロイトの選手と我校の選手と、我校庭にてベースボールの試合を行ふ。前二回の勝利よりして府下の注目する所なるものなれば、見物人の多きこと万にも余る程なり。三時にデトロイトの選手来りて試合を始めぬ。京浜の洋人等も来り見るもの仲々多し。今回の選手は前回のに比すれば余程優勢にして其勢の勇しさ、我選手も仲々苦戦の様に見受けたれども、終に七に対する二十二の勝利を得たり。

 夜岡田氏を訪ひしに川上、内藤等在りて雑談し、共に小梅月に至りて飲む。

 

七月四日

 本校ベースボール部選手は横浜に於て、アマチュアー・クラブ及び米艦オリンピアの選手とマッチを施して二点の敗を取りたり。今日は米国の独立祭なれば負けて置きて可なりと謂ふ人あれど余は賛せず。世人も大に落胆せしならむ。兎も角もベースボール界に一大改良を来すは今回なり。選手もこれには仲々の意気込みなり。

 

明治三十年 

六月三日

横浜ベースボール 

 横浜のアマチュアー倶楽部と高等学校とのベースボール・マッチありて、汽車賃半額なれば行きて見むと正午に出発、福井松雄、中屋、糟谷、宮口など同道す。

 停車場に至りしに雨降り来る。小降りなれば決定するならむと出発に決す。未だ時間あればとて糟谷の案内にて井原、宮口、葛西等と銀座の洋食亭に入りて、菓子とビールとアイスクリームとラムネとを飲食して、停車場に帰りて軈て一時半の汽車にて出発す。

 

 横浜に着きしに雨は益々降りたれば、葛西と出でて傘を一本贖ひ来る。四時頃に雨止みてマッチ始まる。五に対する十四にて高等学校の勝となる。今日のマッチは外人はバッチング強く、学生はフィールディング及びランニング巧みなりしなり。センターの森脇、ライトの山田大に功名す。

 

 三松、木村、葛西三氏と同車して帰る。雨は又降り始めぬ。万世橋にて三松に別れ、本郷に来りて三人にて藪蕎麦を食ふて帰舎せしは十時。

 

六月七日

 午後三時より高等学校及大学生対ヨークタウン号のベースボール・マッチを高等学校に見る。流石に広き運動場も今日は立錐の余地なき程なりき。始めより高等学校勝ち、外人のキャッチャー負傷し、遂に十四点の勝となる。

 

  スポーツとしてはこの他、柔道を試みたが、三日坊主。

明治二十六年

二月十七日

 柔道部の道場修繕落成式を行ひ、講道館投の形態及び乱捕等ありて後茶菓の饗応ありたり。

二月二十二日

 午後柔道を行ふ。

二月二十四日

 柔道部に至りて石橋氏と仕合して足を痛められ、泣くばかりなり。