1、「勉学」に影響を与えた人々

<漢文の素養・文章の巧さ・理工系に進むキッカケ>

・隣りにある分家「高砂屋」の老人は漢学の素養があり、小学校時代毎日「四書五経」の素読を教授される。

 

・栃木の小学校に転校した時期に 村井弦斎が合戦場に寄寓し「文章規範」を教授される。

 

・栃木の小学校に転校した時 相澤校長の物理学授業で「物質不滅論」の関し子供心に大いなる啓蒙を受けたこと。 

 

・明治21年4月小学校卒業と同時に兄儀平に東京留学(遊学)を促され、杉浦重剛の英語学校、蒲生重章から「史記」の個人教授で漢学、数学は至誠学舎に入学。

 

・50年に亘る村井弦斎との交遊を通して「20世紀の電気工学」の発展を確信。

 

 要は 四年間の東京遊學を得て明治25年7月に第一高等中学に合格。

<高等中学時代は佐久間象山に憧れ!>

 

 幕末の大儒学者に佐藤一斎という人がいます。この佐藤一斎の弟子が佐久間象山であり、その弟子が吉田松陰、小林虎三郎です。その他にもたくさんの志士たちが佐久間象山の教えを受けたので、明治維新の元祖みたいな人といってもいいでしょう。

 

 この佐藤一斎は、42歳から82歳までの40年間にわたり、『言志録』という人生の箴言を書き綴っています(『言志録』から始まって全部で4巻となり、『言志四録』といわれています)。 

 

 浪平の高等中学時代の「勉学」に対する姿勢は佐久間象山に憧れていた。勉強机の授業表の右側には「象山の箴言」を書いている。

 

・象山が小林虎三郎へ送った次の文書からも窺うことができる。 

「宇宙に実理は二つなし。この理あるところ、天地もこれに異なる能わず。鬼神もこれに異なる能わず。百世の聖人もこれに異なる能わず。近来西洋人の発明する所の許多の学術は、要するに皆実理にして、まさに以って我が聖学を資くる足る」と。

 

・又 浪平が社会人になって 象山の箴言;『士は過ちなきを貴しとせず 過ちを改むるを貴しと為す』を実践。即ち失敗しない事のみを優先するよりも、一所懸命に取り組んだ末の失敗を正す事にこそ人の成長がある(間違いのない行動ばかりでは人は真の成長は出来ない。不安定な社会だからこそ、日々ベストを尽くして物事に取り組むことで人は成長できる)。

 

・又 象山について書かれた本に「外国技師を雇うよりは、こちらから外国に留学生を出せ、また技術や機械を導入するよりは、暇がかかっても、また途中で失敗したりしても、自力で作り自分で実験せよ、というのは象山が日頃くりかえし強調していた方針です」とあり、浪平はこの考えに触発された可能性が高い。

 

 象山が西洋の電信、写真、マッチの製造など次々に新しいことに取り組む知的好奇心を持っていたこと、また知識を導入するだけでなく、科学技術の基本から学ぶという姿勢もよく似ている。

松陰との比較で言えば、

松陰は「内なる確信に生きて人の評判に左右されない」「情の人」であり、

・象山は「窮理と実証を歩一歩と積み重ねて行くという認識のパトス(情念)に貫かれていた」「知の人」という特徴があった。

 この観点からみると、浪平は両方の要素を備えていた。