薬師寺は全国各地にあるが 現在のJR下野市自治医大駅近くの古いお寺。合戦場からは4里はあるであろう。かの怪僧・道鏡の終焉の地でもある。
自分の祈祷で病気治癒した女帝・称徳天皇から寵愛を一身に受けて太政大臣禅師・法王となり、皇族でもないのに天皇の後継にまで推されながら忠臣・和気清麻呂の「宇佐八幡宮神託事件」でお流れに。
最期は女帝の死で失脚、下野薬師寺別当に飛ばされて寂しく死去。(注;写真は道鏡塚)
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四月四日 火曜日 曇天小雨
<薬師寺紀行>
満天かき曇りて雨も降り来ん様なれど、降らるるも亦一興ならんとつとめて家を立ち出でて薬師寺に向ふ。
昔孝謙帝の御代、天位をも覆さんとして終に和気清麿の為に謀破れ、一朝名壊れて遂に一草間の寺院に流されたる、其寺院こそ余が今向ふ薬師寺なれ。
大宮村に差し掛る頃は、小さき童の学校に行くが腰を屈めて敬礼するもの多し。途を彼れ是れ能く聞きてやがて大光寺村の渡しに来りぬ。涓々として流るる水、名の黒川に似もやらず碧色蒼々たり。是れ打ち渡りて行く程に又微かに響く流れの声あり。近づけば架けたる橋、河に臨める家皆風雅ならざるはなし。姿川とは名も優にやさしく響くぞかし。小金井の宿通りて鉄道を横ぎりし折、汽車の北に行くあり。上野第一番発の汽車にやあらん。河内第一御料地の長き松原過ぎて程なく薬師寺村に至る。
腰掛茶屋に立ち寄りて、老婆に此の村に薬師寺となん呼べる寺ありやと問へば、否とよ、去るものなきも隆光寺、安国寺と呼べる寺ありと答ふ。さらばと立ち出でて隆光寺に至ればさまで古き寺に非ず、且つ小学校となりて昔の景色少しも見えねば去りて安国寺に至る。小さき寺にて是れ又見る可き処なし。
此の寺の後ろに廻れば一堂宇あり。固より小さくて直径三間位の物にあれども、古色蒼然として其彫刻と謂ひ其建築と謂ひ、古のなごりを留めたり。内を窺えば此の堂の薬師堂なるを知るを得たり。人に問へば只だ薬師様を知りて他を知らず。余は此れ昔薬師寺の一部分にして、其遺物の今日に存在するものなるを知りたり。嗚呼薬師寺とは何処なるやと探れども更らに知る由あらざりけり。
昔時道鏡が天下の大権を籠絡して上皇室を危ふし、下臣民を苦しめたる当時の勢力如何ならん。栄枯盛衰は世の常とは謂へ、臣子の分に過ぎたる報は有るとは謂へ此の有様は如何ぞや。
何所が其昔住みにし趾、何所が其墓なるや影も止めぬに、増して今其趾に住む人さえ其昔人の名をも知るなく、草は生ひ茂りて、稀に好事家が其蹟をたづねて一小堂宇を見て、是れかあらぬかといぶかる如きに至りたるとは、嗚呼天誅の恐ろしさよとそぞろに感に堪へざりけり。
雨降り出でぬ。行きし路返して急ぐ。大宮村にて雨はれて西山春色然たり。