4,父の思い出

 父に早く死なれたるを以て思い出は少なき様になるも、余の今日あるの基礎は矢張り父が築き呉れたる事を痛感す。父は深き学問を受けざりしも常に何かしら仕事をせねばと気の済まぬ性質にて、種々の事業に手を染めたるも何れも失敗に終わりたる如く、四十九の短き生涯に於いては何も遺すべき仕事は出来ざらしなり。

 

 父の生家は栃木町城内の旧家大澤本家にして、今は無きも 余の幼児には常にこの家に遊びに行き、種々の面白き印象を頭に遺している。東屋の早瀬喜一郎が天秤棒の両端に籠を付け一方に兄を、他に余を容れてこの城内へ運搬して遊びに行きたる事などありたり。城内の家の周囲にはその南側と東側に小川あり、水清く流勢速く如何にも清潔の感ありたり。屋敷は千坪位もありたらん。古色蒼然たる門あり、門の脇に白壁の土蔵あり、門を入りたる右と左に畠あり、庭ありて本家に至る。

 

 本家は数百年来のものにして栃木第一の古き建築なりし由なり。柱も梁も総て鉋を使用せずして手斧仕上げの儘なり。而して梁は樫材を使用しありたると。柱も梁も団炉裏の烟りにくすぶられ、黒色漆を塗りたる如きはこの家の最も特徴とする処なり。

 

 本屋の右には池あり、この池が又この屋敷の特色なり。屋敷の東側を流るる小川より水を取り入れ之れを南側の小川に放出するものにて、清流を多量に流入するを以て常に清潔にして心地良き池なり。然も大緋鯉二尺以上にも及ぶもの多数優遊す。この鯉は父が子供の頃より同じ大きさなりしとの事、何十年か古きなるべし。池辺にて米など洗うときは この鯉が集まり来り 非常に面白かりき。而して米を洗いても流量多き為直ちに白き色など何処へ消え去る有様なり。池の畔には築山あり、芝生にてその上に稲荷か何かを祭あり、稲荷社の後に大きなる樅の樹あり、それと並びて欅の大木あり、旧家の様相を呈し居たり。

 

 本屋の東北方に別の池あり、之れは全く実利的の養魚池にして面白味なし。本屋の北方即ち裏には孟宗竹の林にして この家の名物と云うべき珍味の筍を産す。竹林の片隅に大なる蜜柑の樹あり、寒き土地なれば冬の間は藁にて之れを覆い霜除けとせざれば枯死するを以て、この木の如き大木の蜜柑を保存する容易の業に非ざるべし。蜜柑の樹の脇に別の土蔵ありたるを記憶す。大澤家の模様を詳しく書きたるは忘れ難き思い出多き為なり。(この家は明治の末年に火災にて焼失せり)

 

 父はこの家の三男として生まれ、長兄は家を継ぎたるも妻子を家に残して宇都宮に妾宅を置き、別居し居たるやに記憶す。早く明治二十四・五年頃死去す。

 

 次兄は弓田彌平と云い栃木倭町にて塗物屋(漆器商)を営み居たる。父より常に援助を受け居たるものらしく、父の死後余の学資はこの叔父より出る筈なりにしが遂に之れを履行し得ざりき。(中略)

 

 父の弟に毛塚彌太郎あり、矢張り栃木の町にて茶及陶器類を商い居たり。風流人にして二竹と号し絵を能くしたり。栃木には竹痴と号したる絵師あり、筆趣頗る大雅堂に類似したり。而してこの竹痴が叔父の絵の先生なりし如し。叔父の絵は全く素人離れのしたるものにて堂に入りたりとでも申すべきか。この人は肺病になり四十歳前後にて死去したり。その遺族は四散して東京に居るものもあり。(中略)

 

 大澤家は 父の兄の子大澤貞司によりて相続せられたるも、之れも長命せず五十歳未満位にて死し、その子大澤憲に至りて屋敷を手放す事になり、郷里を去り東京へ転出するに至れり(中略)。

 

 父の生家の関係は以上の如く、父は壮年時代となり古河町の一井屋?(酒屋ならむ)へ養子に行き二女を儲けたるも、如何なる理か離縁して小平家に入婿したるなり。多分明治三年頃なりしならん。古河に遺したる長女は 後年間中八尾の長男隼太郎に嫁す。今の間中宣長の母なり。即ち余の異母姉なり。

 

 父は背高く痩形にして筋骨逞しとは参らず、矢張り良家に生長して労働せざり為めならむ。昔の事なれば寺子屋の外は何等の教育を受け居ざりしを以て教養高しとは申されぬも、書籍に対する熱意は大したものにて、一通りの漢文の書籍を購入して余等に読ましめたり。四書五経史記左傳文章規範の類いなり。

 

 事業欲も盛んにして山林、鉱山などにも手を染め寧ろ失敗に終わたる如し。

 

 最も振った事業は鉛丹製造事業(注;下記写真は現存する鉛丹と製造場内部)なり。 

 自宅の納屋を改造して製造場となし、数個の火炉を築き技師紅林某を雇いて事業を開始し、鉛は東京より移入し、燃料は自家の平林を伐採して薪となして使用し、動力無きを以て隣村平川村の水車を利用するなどして暫く継続せるも、収支相償う事なく僅か一、二年にて廃業せり。之れは明治二十年頃なり。

 

 事業は失敗したりと雖も余が工業に志し、父の希望に副はむと云う考えを起こしたるはこの為なりきと思う時には、この事業は決して失敗に非ず日立製作所の種子とも見るを得べし。

 

 今日に於いては子供は最高の教育を施すを普通とするも、昔は教育など深く考ふるものなき時に當り、父は教育は絶対必要とし、子供は何れも最高の教育を為さむと計画したるものなり。

 

 依って兄は十四歳にして東京に遊学し、余は十五歳即ち高等小学校を卒業すると同時に明治二十一年四月東京に留学したるなり。是れ全く父の方寸によりたるものにして、父は自分の教育せられざりしを慨して之れを子に於いて償はむと計りたるなり。

 

 小平家は富裕には非ざりしも 数十町歩の田畑山林を有し、郷里に於いては押しも押されもせぬ程度の富を有し、然も 古き家柄を誇として子女を養育したるを以て、余の如きも貧乏人の子供なるも 心持ちは富豪の子弟の如く成長したるなり。

 

 父は子女の教育などに関連して相当の富を希望したるは勿論なり。されば山林払い下げ問題にて奔走して一攫千金を夢見、石炭鉱区の買収に大金を投じて失敗し、家計漸く悲境に陥りたる時に病を得て、遂に借金を遺して四十九歳を一期として他界せる運命に到達せるなり。借金と七人の幼児を残されたる母の当惑は如何許りなりけむ。

 

 父は酒は少量をたしなみたり。一合を二、三回に分ちて飲む程度なりしならむ。煙草は無茶に吸ひたり。常に刻み煙草を大行李に貯蔵して楽しみ居たり。後年健康を害したるは煙草の過飲に依らざりしかと思はる。余が非常に好み多量に喫したる煙草は、五十歳の時に決然意を決して廃煙したるは父の事を思ひたる結果なり。父は実際の教育を子に遺したる。

 

 父の細工は如何なる事でも大好きにて家内には大工道具、経師屋の道具、其の他当時に於いて世間に有りふれたる道具は何でも有ると云う風にて、子供の玩具より家庭の実用器具などに至まで之れを手製したり。又職人を愛し、各種の職人の出入りするものありたり。合戦場に現存する稲荷、八幡の両社は父が建豊と云ひたる建具屋に造らしめたるものにて、当時土蔵を造る位の費用を投じたりと噂せられたり。

 

 父は書画骨董を愛し相当の鑑識眼を有したるも、田舎に居住したると財政に余裕少かりし為め余り深入りせざりし如し。然し父の遺したるものは面白き物多し。

 

 父は不言実行の人にして多くを語らず、而も意思は非常に強固にして思い立ちたる事はどしどし実行する人の如し。他人との交際は余り上手にも非ず、又それを好みもせざりし如し。この点は余の如きも全く父の性質を継承したりと云うを得べし。

 

 父の若かりし頃は商売の関係か会津若松方面へは数回旅行したるらしく、会津の話を聞かされたる事多かりき。然し父の大旅行は何と言っても伊勢参宮なりしなるべし。

 

 伊勢詣りは余の十一、十二歳の頃なりしならむ。分家の小平重兵衛を同伴し、荷物運搬係りとして重兵衛(鍵田屋)宅の下男伊勢松を連れ、無論和服にて脚絆をはき、日和下駄履きにて荷物は柳行李二個に納め、之れを伊勢松が天秤棒にて担ぎ出発したるなり。近隣の人は村端れまで之れを見送り、父等の一行は銭を撒きながら威勢良く出発したるを記憶す。この頃の世界旅行よりも大騒ぎなり。

 かくて約一ヶ年位を費やして伊勢は申すまでもなく讃岐の琴平より九州長崎方面まで旅行し、帰途京都にて土産物として京焼の陶器などを沢山買い帰宅したる事を記憶す。太平の御代の賜物と云うべし。余が兄と共に太平山神社に参詣して父の旅行安全を祈りたるはこの旅行の時なり。

 

 父は四十九歳にて他界せるが四十五歳の頃、余が十三歳となりたる時に郷里の習慣に従ひ、二荒山(注;男体山)へ登山せしむる為め 余を連れて日光に至り、中禅寺に一泊して夜半より登山したる事ありたり。この時には既に多少健康を害し居たるにや、非常に疲労せる如く見受けられたるも兎も角絶頂を極めたれば、よもや数年後に他界すべしとは思はざりき。父に連れられたる大旅行の唯一のものなり。

 

 父の生家大澤家の菩提寺圓通寺は忘れられぬ処なり。竹林に囲まれたる田舎寺なるも小高き処に在りて下の田圃の眺め好く、脚下より冷透玉の如く清水湧出して池をなし、大小各色の鯉を放養し、池と座敷の間は芝生にて子供の遊ぶに適するなど、当時の余には他に比類なき場所の如き印象を残しありたり。晩年母と共に墓参したる事ありたるが矢張り好き処は間違ひなし。

 

 余の平塚の別荘の芝生は単にゴルフ場を連想して造りたるに非ず、圓通寺の庭にヒントを得たるものなり。この寺の筍は有名にてその味は京都のものに匹敵す。

鉛丹とその製造場-----日立製作所の種子