兄は明治四年二月十二日に生まれ、郷里合戦場の小学校にて教育受け秀才の誉れ高かりき。十二、三歳の頃に退校して栃木のある漢学塾に入りて勉学し居たるが、明治十七年の頃東京に遊学し、漢学は蒲生塾にて、ドイツ語をドイツ協会学校にて勉強し、明治二十二年第一高等中学校の入学試験に応じ優等の成績にて入学するを得たり。ドイツ語専門にして医学を志したるなり。その翌年二十三年十二月父の死に会し、涙をのみて高等中学を退校して郷里に帰家するに至りたりなり。
兄は栃木に通学せる頃より詩に長じ多数の作詩あり。高等中学を退校して帰郷せる後の悶々たる鬱情はその詩によりて吐露せらるたり。何故に退校せるかは言うまでも無く、父の残したる借金は余等二人を東京に遊学せしむる得ざる経済的事情に他ならざるなり。
而してその貧乏籤を引きたる兄なり。秀才なる兄は遂に犠牲となりて郷里に帰り、余は次男なるが為に遊学を続くるに至りたるなり。
兄は一言の不平も言わず長男の義務として一切を断念し、青雲の志を捨てて栃木町の四十一国立銀行の最下級事務員として使用人生活に入りたるは何とも気の毒なる次第なり。
兄は 実際は兄に非ずして 父に等しきなり。余が大学を卒業する迄前後十年間の何等の滞りも無く継続し呉れ、余をして全く後顧の憂いなく専心勉強し得せしめしたる恩は真に親以上と思はざるを得ず。余は明治二十一年四月父に連れられて始めて上京し東京にて勉強すること事となり、東京英語学校に入学する事を決するも、入学の手続きを為すも皆兄の盡力に依る。
浅草代地の平井氏方に下宿していても毎日本所区緑町より来りて相会ひ相談るを楽しみとしたるなり。或時は本所の奥、今の錦糸掘りのあたりまで釣りに行き、或時は小鳥篭を提げて上野の山に小鳥捕りに行きたるなど忘れ得ぬ数々の思い出が残りいるなり。余も確かに兄に対して従順なりしが 兄が弟の面倒を見る事の周到なりしは忘れるるを得ざるなり。
兄は郷家の事を世話する事は自分の天職と覚悟したる如く、何事も兄を煩ししたるは余一人のみならず弟妹何れも同じ事なり。何れも相当の年配になりて後までも皆兄の厄介になりたるなり。去れば余の戸籍などは大正三年頃まで郷里の兄の戸籍内に抱合わせたるなり。是れ母の存命せる為にもあるが兄の万事に対する世話が離籍せざるを便とる為めなりしなり。
兄は弟妹六人の面倒をみるを自分の天職と思い居るかの如く能く世話し、明治二十四年より昭和五年十月迄約三十九年間銀行に奉職して四十一国立銀行、より東海銀行、更に変化して第一銀行栃木支店となり、最後にはその支配人となり第一銀行宇都宮支店長を兼ねるに至りたり。仕事は小なりと雖も共最高の地位に達し、勤勉と誠実を主義主張として栃木町、否や栃木県下に相当の地位を占むるに至りたるは志操の堅実なりし証左なるべし。
銀行を辞めて以来は全く悠々自適の生活にて、二、三の友人と旅行するを楽しみとし、東北地方、九州地方、樺太及び満州、朝鮮まで羽翼を伸ばしたるは洵に羨ましき限りなりき。
晩年は郷里の事にも力を致し灌漑〇筒の設置、合戦場会議所の建設、八坂神社への寄付などその他枚挙にいとまあらざるべし。
兄儀平は父の死により一高を退学して地元の第四十一銀行に最下級事務員として明治24年から勤めだしたが、中卒扱なので明治31年でも月給は拾六円。戸主として嫁チカ及び弟陳平の療養費等々を考えると浪平への学資仕送りには四苦八苦していた心情が読み取れる。この年浪平は工科大学一年でまさかの落第。そのショックで房総に17日間逃避行した時期。墨で消してたのは何を意味するのか?
浪平は社会人になってからは弟たちの療養費や学資やを兄儀平に代わって負担している。
一つは 7歳年下の病弱だった弟陳平の療養費。大学を卒業後山奥の小坂鉱山に勤めだしてから半年後の明治34年の旧正月に兄宛手紙を出している。最後の文面に すぐ下の弟陳平が病気になったのであろう療養費として30円(2ヶ月分)を送金している。破格の給料(85円/月?)を貰っていたのも確かであろうが これも兄への恩返しだったのであろう。『拝啓 久しくご無沙汰に打過ぎ・・・・・・中略・・・・・ 当地も旧正月にて、毎日の宴会にて殆んど閉口仕る。漸く3日を費やして 本日より例の通り執務致し居り 山の中なれば何でも酒なければ夜も明けぬ始末にて下戸□の困難御推察ください。本日金30円也御送りまする。右を陳平殿療養費(2月、3月分)の内に 御繰入れ度。・・・・・』兄上様
二つ目は 13歳年下の勲が工科大学に入学したときの学資。明治43年の手紙で、日立製作所創業の時期で浪平は超多忙だったのであろう。この手紙は 明治43年8月に合戦場より日立鉱山の浪平の役宅に手伝いに来ていた”志げ”(父惣八の先妻の二女、即ち儀平・浪平の腹違いの姉)が 儀平宛て送ったものである。
『拝啓 炎暑に候にて・・皆様御変りなく 中略 ・・・・・・・同封にて通帳郵送申上ぐる御手続き之程願たく30円之方を当座に致し置き・・早々・・御用事まで 御旦那様 志げより』。
昭和5年と言えば 昭和初期の不況から日本経済は未だ脱出出来ず 失業者が溢れていた時代。しかしながら 浪平は 将来の電気機械産業発展を見据えて大型投資構想を描き、その実現に動き出した時期。
この年 兄儀平は満60歳を迎え、父惣八の急逝により一高退学して、最下級事務員として40年間勤め上げた第一銀行栃木支店長を最後に定年退職。
天長節の日付で兄儀平へ礼状を書いている。和紙に長さ約2mの手紙、勿論毛筆。その要旨は
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「(前文略)人生の最盛期を然も四十年ご奮闘され、定めし感慨無量のこととお察し申しあげると共に、このことは徳望と智力と体力との絶妙を以て始めて成就したる事と存じ 洵に羨望の次第。四十年の間終始一貫一事業に専念円満引退遊ばされ一事を以てしても 吾等一族の名誉として誇りうるのみならず 私共も是非之れを学びたし。一高を退学して以来、吾ら弟妹その授かった恩義を回想しております(後略)。 昭和五年 天長節 浪平
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尚 本手紙は母校の合戦場小学校3F歴史資料室に原文保存されている。
浪平は2月15日で古希を迎えた兄の為に一族郎党約30名を集めて祝宴を主催している。場所は日比谷の陶陶亭という中華料理店(昭和15年新築の鉄筋5階建て)。儀平の息子の日記に記録が残されている。「六時頃より皆集まる。浪平叔父の挨拶あり。父への謝辞及び感想ありて 一同喜寿を期して健康の為に乾杯し、支那料理を喰う。九時過ぎまで歓談して 雨の中散会す。裕兄さんと弥生町に宿る。出席者は知二夫妻、弥生町夫妻、哲三兄、裕四郎兄、佐藤文二家族、三組町浪平一家、00家族、七平さん等約30名。
儀平は 古希の返礼として七言絶句「偶感」を遺している。儀平は4年後の昭和19年没(享年74歳)。