8、東京留学

 

 

 留学とは可笑しき標題なるも、この頃の東京遊学は今の欧米留学にひとしかりしなり。

 

 鉄道は東北線が上野宇都宮間が落成したる位なるべし。両毛線は工事中にて汽車に乗るには小山迄人力社車に拠らざる可からず。(注;写真は明治21年5月22日始めて両毛線栃木駅に入って来たSL)

 尤も家兄(注;儀平)の東京留学の際は小山も開通せず。古河の手前新波(ニッパ)と云う處より巴波川を利用したる川蒸汽により両国橋下に至りたるなり。

 

 明治二十一年四月には小学校を卒業すると、吾輩より数年前に上京したる家兄よりは再三上京を促され、父も吾輩を遊学せしむる事に決心し居たりたる如く、この時に吾輩の上京を必要(?)とする事件が起こりたり。

 

 祖父小平惣八(注;父の惣八ではなく祖父の惣八)の妹に律子というものあり。始め皆川村の鈴木氏に嫁したるも、いかなる理由か離縁して上京して平井常盤氏に再婚したり。鈴木家には子供残したり。其の一人に流作と云いたるを承知す。平井氏にては一子貞吉を産む。この頃三十歳位なり。而して常盤氏が最近脳溢血にて急死。貞吉氏は別居し居るを以て、老人なる律女は全く一人暮らしにて不都合なれば、ぜひ吾輩に上京して呉との話あり。

 

 東京留学を促進せる一原因となりたり。四月五日父に送られ人力車にて小山駅に至り始めて汽車に乗りたり。汽車の速力は非常に早く、電信柱が格子のように見ゆるなどと聞かされていたるも、左程に速からず感じたり。この頃の車はボギー車に非ざれば動揺甚だしく、腰掛は線路に直角に装置せられ、向き合いたる腰掛の南側に出入り口のドアあり、このドアは鍵を掛けて自由に出入りさせず、車掌が一々鍵を以て開閉する仕掛けなり。如何に呑気なりしかを知るべし。

 

 父に送られて届けられたるは浅草区新須賀町二番地の平井氏の宅なり。この家は茅町の裏通りにて二階建ての長屋なり。長屋には始めて住むものにて変な気分せり。前に述べたる平井律女一人の住家にて裁縫の師匠をなし、数人の子女が稽古に通いたり。

 一子の貞吉君は妻帯したるばかりにて日本橋の田所町に借家し、紀州綿ネルのブローカーの如き商売をしていたり。細君のおゑいさんは紀州の織物屋の娘なりとの事なり。

 

 新須賀町の家は長屋なるが、南側の隣は金平糖屋にて朝から晩まで金平糖を製造する騒音絶えゆる事なきが、北側の隣はメリヤス屋にて二階が工場にて、メリヤス機械二,三台ありてこれ又朝から晩まで喧しき事非常にて、今後この二階にて勉強せんとする吾輩には少なからず脅威を感じたり。

 

 兄の下宿は本所区緑町(今の国技館の裏の方なり)の小平保三氏方なれば余り遠からず、待望の弟来れりと喜んで会いに事勿論なり。

 

 父と兄と相談して吾輩は東京英学校へ入学することとなり、四月十六日兄に連れられて入学の手続きを了したり。勿論試験など無く何人でも大歓迎することは一般の私立学校と同様なり。

 

 この英語学校は杉浦重剛先生の経営にして今日の日本中学校の前身なり。神田区錦町の今の電機学校の校舎の處にありたり。この学校の最下級に入学したるがこの校にては、年数回の小試験あり。この小試験にて平均点八十五点以上を取れば一学年を進級させるという英才教育方針なれば、吾輩も幸いに何回も臨時昇級したり。

 

 普通学と英語はこの学校にて充分なるも、数学と漢学は不充分なりとて別の私塾に通学することになり、漢学は九段下の蒲生塾に入り蒲生重章先生に史記の講義を個人教授せられ、数学は下谷二長町の至誠学舎に入学せり。この学舎は某老人の個人経営の私塾にして先生自ら生徒を一人づづ個人教授するなり。昔の和算の先生にして独学にて西洋の数学、幾何学を会得したるひとなりと。蒲生先生も維新前より有名なる漢学者なり。

 

 これらの勉強は畢竟するに第一高等中学校(今の高等学校)へ入学の準備に外ならざるなり。

 

 新須賀町は俗に浅草の代地と称したる處にして、比較的閑静なる袋町にして料理屋、待合従って芸者屋などもあり。極近所には観世流の謡曲の先生(相当有名の人なりしこと)俳優、一中節の先生など住し、全くの下町情調を満喫する事を得たり。先に記したる如く隣家はメリヤス屋と金平糖屋なるが、向かい側には謡曲の先生と共隣の漬物屋、焼芋屋、風呂屋なり。漬物屋は母と倅と二人にて営業し母は四十歳位、倅は十七、八歳にて評判の孝行息子なり。

 

 平井貞吉氏は明治二十五年六月肺患に罹りて死去し、妻のおゑいさんも間もなく同病にて死去し、平井老婆は気の毒にも一人取り残され段々老衰せるも世話する人なきままに、元柳橋の芸者某の親許となりて之を鳥越神社前の紙屋田中氏に嫁せしめたる事あり。この人が老婆を引き取りて暫く世話したり。然れどもこの老婆の性質は中々勝気にて人と争うことあれば何か拙き事ありたるならむ、ここにも長続きせず,遂には時分の実子なる鈴木流作が今戸の当たりに居住し居るを以て之に引き取られたる由なり。

 老婆の死去しての葬式などには会葬せざりしも、家兄が万事処理せられたり。 (昭和23年6月2日記)

 

参考;北関東の鉄道敷設

 

・1883年(明治16年)に高崎線(上野---熊谷)開業。

 

・1885年(明治18年)に東北本線(大宮---宇都宮)開業。

 

 結果的には大宮駅から分岐して宇都宮駅となった。

 

 足利、桐生の「機業地帯」の有力豪商であった木村半兵衛は 熊谷駅分岐案として伊勢崎--桐生--足利--佐野--栃木--宇都宮を主張したが、軍事・工期・コスト面から断念。

 又 何故栃木町の商人達が県庁所在地であったのに 小山駅に譲ったのか摩訶不思議。

 

両毛鉄道会社を設立して

・1888年(明治21年)に小山---足利間5月に開業。

 

 浪平が始めて上京したのは4月だったため 合戦場から小山駅まで人力車で。始めて汽車に乗車。

 

尚 常磐線の上野---平間の開通は1897年(明治30年)。

 

      左記地図の出所は「栃木県誕生の系譜(下野新聞社編集局 2019年12月31日)