総ての学校時代の内最も楽しかりしは高等学校時代なりき。
これは吾輩のみならず総て学生生活をなしたる人の経験なるべし。
去ればこの校の志望者は圧倒的にして、実に高等学校は天下学徒の目標となり、これを登竜門として殺到し来たる事明なり。吾輩は明治二十三年七月、父未だ在世中に一度この入学試験を受けて落第す。
勿論及第するなどとは夢にも思はざりしも兄薦める儘に受験したるものなれば、落第したるを早く帰省し得るものとして喜びたる程なりき。
落第して喜び勇みて上野より汽車に乗りて帰省したるに、途中小山駅にて父上に会いしたり。父は宇都宮へ所用にて行きたる帰途なりしと。父は試験の結果を如何にと早速に質問せらる。吾輩の子供心とは異なり万一の期待し居られたるは勿論なるべし。吾輩より落第の報告を聴かれたるも別に怒りたる様子もなく、相携えて帰宅したる事は今も忘れられず。
この年の十二月に父は死去し吾輩にも重大なる衝撃を与へ、来年こそは是が非でも入学せざる可からずと大決心をなして勉強するに至らしめたり。
代地の平井氏の二階の六畳に荷物と同居して勉強し居る吾輩は、決して頑強なる体格にはあらざりき。去れば勉強の身に没頭する事は危険と思い運動を思い立ち、英語学校のボート会に入会しボートを始め、日曜日には努めて散歩、遠足などをなす事としたり。
明治二十四年七月再び高等学校(当時は第一高等中学校と称せり)の入学試験を受く、受験者千二百余名にして合格者七十名の中に入る事を得たり。当時の志願者は総て無制限なりしかば、小学校のみを卒業ものあり、中学校を卒業したるものもあり、年齢も三十歳以上のものもありたる混乱状態なり。一生の内にて最も嬉しかりしはこの時なり。何も判らず天下でも取りたる如き喜びを感じたるも無理ならざるべし。
九月思い出多かりし代地の平井氏宅を引き払い、高等中学の寄宿に入りたるは確かに新時代を制したるものと云うべし。吾輩などが五ヶ年制の高等中学の最後の生徒にして、それ以降は三年制となりたれば 吾々は二ヵ年余分の教育を受けたるなり。
この五ヵ年間を全部この自治寮にて暮らしたれば、自分等よりも五年上級生も自分等よりも三年の下級生も同じ釜の飯を喰ひたる理にて、交友も比較的多きはこれが為なり。後年実業界に出て仕事をするに便利を得たる事絶大なり。しかも共友人には法、文、医は申すに及ばず、理農科にも知友多き有難き結果を生じたるなり。純真にして素朴なりしこの寄宿生活こそ実に吾輩の将来に役立ちし錬成道場なりしなり。
入学試験の時に一番疑問となりしは吾輩の体格なり。体重十貫目に達しざるしを以て校医なる山縣正雄医学士が頭を傾げて、「九月まで海水浴でもして再び来るべし、その時に再検査してもし悪ければ入学を取り消す事あるべし」と脅かされたり。九月に至りて再検査せるに体重は十一貫余となり愁眉をひらきたり。
去れば入校後は学科の勉強はよい加減にして体育に全力を注ぎたれば、体重もメキメキ増加し三年を経過せる頃は十三貫目以上となり、卒業する頃には十三貫八百匁目迄増加したり。これ五十歳位迄の最高記録なり。
最初に寄宿に入りたる時は西寮五番室室なり。北側にて日当たりなき最下等の室なりも新入生なれば致し方なし。この室に入りたるは同級生十人なり。この同室者が最も懐かしき連中にて、分散後も何とか互いに連絡を保ち度 遂に二五会を結成するに至りたるなり。十人の会にして明治二十五年に創立したるを以て二五会と命名せり。
後年前田正名氏主唱の五二会と類似するを以て間違いらるるもこの方が先輩なり。
入学後最初に熱中したる運動はローンテニスなり。未だ初期の時代なれば硬球は無く何れも軟球なり。学科を放鄭して余暇あれば常にこれを遊び,在校五ヵ年間を通して面白く継続せり。技も相当上達して余り人後に落つる事なかりき。ローンテニスは吾輩の最も好み体格にも適合したる運動なり知らむ、当校を卒業して大学に入りも中止せず、大学時代には確かに第一流となりたり。当時は他校との仕合など流行せざる時代なりければ共味は知らず、又共技の優秀さを比較論評する事出来ざりしなり。
テニスの次はボートに熱中せり。この漕技も確かに相当のものなりと信じたるも如何せん体重僅かに十三貫位、身長五尺二寸何分にては選手となる事を出来ず、結局野次馬に終わりたり。
この外、野球、柔道、弓術など何れも少しづつ入門したる程度なり。
食欲旺盛の時代なれば宿舎の食堂の飯だけにては腹の蟲が承知せず、夜は外出して何を喰うを常習とせり。梅月と云う菓子屋が湯島天神の脇にあり、最も頻繁に通いたり。後年追分に小梅月と云うが出来、梅月の菓子を喰わせビール位は飲ませたり。校門前の蕎麦屋松屋、本郷四丁目の青木堂、春木町の牛肉屋豊国などを廻り歩きたり。銭の無き時はコンパニーを遣りて我慢す。コンパニーは焼芋、アンパンなどをなりき。
遠足を時々やりたり。草履ばきにて弁当を腰に下げ、電車も無ければ寄宿より歩き出すなり。寄宿の弁当は常に一定して変化なし。飯を竹の皮に包みたるものと、牛肉の佃煮を同じく小さき竹皮に包みたるものなり。目的地は目黒、亀戸の日帰りか、遠くは大宮公園など。寄宿の食堂の飯を一食喰わざる時は玉子を一個呉れる事となりいたれば、机の抽斗には玉子が沢山溜まる事ありたり。
下宿屋にいる友人を訪問して閑談して菓子など馳走せらるるは楽しきものなりき。家庭を持つ人の家を訪問すればその両親が大いに歓待して呉れるは当然にて、これも楽しみの大なるものなりき。山田朔郎、小室文夫の両君などに家は良く訪れたり。
先生方の思出は何と云っても校長木下広次先生が一番なり。全校の輿望を担われて断然光っておられたり。
倫理と漢文の宇田先生も忘るる事出来ぬ先生なり。先生は栃木県永野村(注;現栃木市永野)に本居を置かれ、家族は農業に従事せられいたり。先生も同地に隠棲せられたるを木下校長が再三勧誘して漸く本校の教授となりしたりと。
吾輩の保証人平井貞吉氏の死後、先生に保証人を依頼したるに快諾せられ在学中の保証人をお願いせり。
第一高等学校は今の東京大学農学部の處にあり、本館、図書館、物理教室など煉瓦造りなりしが、大正十二年の大震災にて壊倒し木造の部分は今回の戦災にて焼失し、寄宿舎は多分取り払われたるならむ。昔時の面影は何も残らず、駒場へ移転したる後は観たることもなく共生徒も昔日の面影ありや否や疑問なり。