要 旨

 この「晃南日記」は、高等中学から大学にかけて、翁が20才の1月から26才の5月まで、約6年半に亘る青春の記録とも言うべきものであるが、時代も明治27、28年の日清の役を間にして、所謂日本の近代資本主義への黎明期であり、勃興せんとする時代の力は、必然にこの多感な一青年に多くの影響を与えずにはおかなかった。 

 

 高等中学3年の頃、旧師村井弦斎を訪ねて電気工学専攻を決意した翁が、その後 国内各所の工場を見学して「我国工業の幼稚」な現状に落胆し、これに比較して、外国雑誌で知った欧米先進諸国の「盛大なる規模」に圧倒されながらも、この劣等意識を逆にポジティブなものにと転化し、進んで渡米の大望をを抱き、「世界の舞台に於いて余の力を振はむことを欲」するに至ったのも、この凡ゆるエネルギーの横溢する”明治”と言う、時代の風潮に大きく動かされたものとできよう。

 

 これを敗戦後の今日の学生の、一般的状態と対置して考えるとき、われわれは 今更時代の激変に胸打たれる思いがする。

 

 この大部な日記中には、肉親縁者、学窓での交友等に関するものは言うに及ばず、社会、時事に関する批判に至るまで、翁をめぐる万般の事象が網羅されているが、中でも異色あり、且つ目を惹くものの一つに紀行文がある。これは日光太平山をはじめ、遠く甲駿関西地方等に旅行した折のものだが、それ等には、刻明な筆致でその土地土地の風光文物の描写が行われ、これは翁が単に几帳面で筆まめだと言うだけの理由からではなく、「余の脳は詩人的なり。多感詩人の脳漿なり」と、自ら記している通り、当時かなりの文学的趣味を有していたと思われる。

 

 趣味と言えば、翁はこの頃絵画写真等にも人一倍の興味を持っていたようで、よく美術展などにも出掛け、批評めいたことを書いている。

 

 これらは、後年の翁をのみ知る人々には、寧ろ意外の感を抱かせるであろうが、この青年時代培われた豊かな趣味性が、晩年不遇な追放中、翁を促して一人杖を曳き、上野の博物館へとその歩を運ばしめ、古美術、名画等の前に、暫し無柳〇と傷心を忘れさせたのではあるまいか。

 

 最近、何々日記と称する著名人の日記類が良く出版されるが、それらは、殆ど皆本人が一定の社会的地位に就いてからのものである。勿論それはそれとして価値あり、有意義なものに相違ないが、これに対し本書は飽くまで偉大な工業人、実業家の、未だ人間形成期ともいうべき学生時代における、天真爛漫にして赤裸々な生活の記述である。

 

 従って、読者は本書から後日 工業王国大日立を築きあげた、一巨人の偽らざる人と為りを知る事が出来るであろう。ここにこの日記の特色ともいうののがあると同時に、本書刊行の目的もこの点に存すると云うことが出来よう。(本書の編集後記より。)(以下略)